やさしい社会、支え合う人々
                                          
                                 堀切教会牧師 真鍋孝幸
 年金受給年齢を引き上げよとしている動きを連日マスコミは報道している。それにあわせて定年も70歳定年が議論されようとしている。

 人生50年といわれていた時代は最早一昔前のことであり、今や90年から、100年といわれる時代が来ている。

 団塊の世代の二階建て厚生年金受給者は、今後、安心して老いるためには、二千万円の貯蓄・財産が必要で、投資も視野に入れた資産運用を考えてほしい、と金融庁が答申したと報道された。

 厚生年金受給者でない国民年金自給者は、それ以上に厳しい老後で、お先真っ暗である。

 社会保障費が国家予算の二分の一を占めようとしている中で、どのようにしたならば「安心した老後」を暮らせるのか、と思うのはわたしだけではあるまい。

 この問題を政争の具にしてほしくはない。与党・野党の垣根を越え、知恵を出し合いながら、真摯に真剣に議論をしてほしい。

 防衛費には信じられない予算が計上されるのに、支え合う仕組みである保険が損得勘定で議論されると、「弱者」といわれる人たちには生きづらい社会となってしまう。

 自己責任で、自助努力で難局を乗り切るという議論は「公助」、「共助」よりも自助が強調される社会である。

 ある友人がまだオリンピック熱が盛り上がりを欠いていたとき、わたしが「3・11の事故に対する被災者の人たちの救援もままならないのになぜ、この時期に東京オリンピック・パラリンピックをやる必然性があるのか」と問うと、その友人は「オリンピック・パラリンピックが開催されれば地域のインフラは整備され、バリアフリーがいっそう進む。」というような事をいった。その時、わたしは「オリンピック・パラリンピックが開催されなくても地域のバリアフリーはあたりまえである」。といったことを記憶している。

 障がい者に住みよい社会は障害のない人たちにも住みよい社会であり、防衛費に莫大な経費を計上するよりも、福祉を充実させるために予算を計上する方が現憲法に則っていると、わたしは考える。

 改憲論者は、それは理想主義で、リアリティーに欠けると反論することだろう。北朝鮮、その先にある中国を考えるとアジアの平和のためにはイージスアショア導入は不可欠で、秋田と山口に設置して、防衛力を強化するという。

 「辺野古」と同じような手法で、今度も住民の声を無視するのか、無視しないならば、明らかに沖縄に対する「構造的差別」があることになる。

 支え合う、見えない人たち、見えていない人たちを視野からはずさない。そのような感性が為政者たちにあれば、答申を受け取らない。というような少なくとも前代未聞の珍事はなかった。

 先日、バスを待っていたらこんな会話が耳に入ってきた「7月に選挙があるそうね。区議会、都議会だけ…どこに入れても変わらない。」これが年金受給者の人たちの会話であった。この無関心をわたしたちはどのように受けとめればいいのだろう。有権者であるわたしたちは「時の徴」を見極めたい。

 宮沢賢治は「アメニモマケズ」とうたい、讃美歌280番「まぶねのなかに」の歌詞には、「食するひまも/うちわすれて、しいたげられし/ひとをたずね、友なきものの/友となりて、こころくだきし/この人を見よ。」とパスカルの研究者でもあった由木 康は、「イエスとは誰か」をこのように物語る。

 一人は「法華経」を信奉する仏教徒、一人はキリスト教の伝道者である。宗教の枠を越えた真実がここにはある。

 やさしい社会は、生きづらい社会ではない。「助けて」といえる社会であり、損得勘定で動く社会ではない。そのような社会がきずかれないならば、自己責任、自助努力が当たり前となってしまう。そのような社会をわたしは決して望まない。