2019年6月
                それぞれが与えられた道を歩むならば
                                            
                       堀切教会牧師 真鍋孝幸
 5月23日、日比谷野音で行われた「狭山事件の再審を求める市民集会」に参加しました。56年間、石川一雄さんは無実を訴え続けています。

 再審を求めて石川一雄さんの無実を信じて止まない人たちが日比谷野音に全国から集い、集会後、デモ行進で、石川一雄さんの無実を訴えました。

 わたしが招聘された堀切教会は年に一度、石川一雄さんとパートナーの石川早智子さんを招いて、「励ます会」を行っています。そこでお二人から再審の進捗状況を伺います。一雄さんはその中で「今」の心境を詩にして、伝えてくれます。

 早智子さんが東京の「おかあさん」とよんでやまなかった今は御国におられるSHさんとの繋がりがきっかけでした。

 「狭山事件」を知らなかった教会員も、真摯な態度で「無実」をひたすらに訴え続けておられるお二人を知り、石川一雄さんの「見えない手錠」が外されるその日まで、支援を続けたいとみんなが考えることとなり、このような集まりが続けられています

 その日、ある教会員のショートメールで「朝日新聞」に意見広告が出たことを知りました。集会とその後のデモに参加し、自宅に帰りその一面の意見広告を見て、今月のことばを書いています。

 「日本維新の会」の衆議院議員と南関東ブロック候補者が、信じられない発言をしました。丸山穂高衆議院議員は、武力行使による北方領土返還を意図するような発言、長谷川 豊候補は無知としかいえない被差別部落の人たちへの偏見、そして差別を助長するような発言。これらに見え隠れするのが「富国強兵」「優劣」の考え方です。日本維新の会はそれ以外にも問題発言があったことを報道されています。

 集会で隣りにいたある牧師が一連の発言に対して、「彼らは『明治維新』に戻すのだ、そのような社会を望んでいる政党だから当たり前だ。」ということばに妙に納得しました。

 衆参ダブル選挙が囁かれる中で、良識の府にふさわしくない人たちが選ばれるとするならば、それは有権者の責任です。

 ある伝統のある教会では政治的な発言はタブーだそうです。政権が神の御心に沿っていなければ、「否」をいう意志をあらわすのは当然です(ローマ信徒への手紙13章1節を本田哲郎訳で読むとそのことがわかります)。

 イエスは「主の祈り」を弟子たちに教えられました(マタイによる福音書6章9~15節、ルカによる福音書11章2~4節)。
 
 イエスは言葉と実践(行動)を通して「神の国」について語られました。たくさんの奇跡の背後には苦しむ人たちがいます。置き去りにされ、うごめいている人たち、偏見の目に晒されている人たち、差別され、排除されている人たち、病気に苦しむ人たち、神殿に献げ物を献げることも出来ず、神の恵みから見放されたというレッテルを貼られた人たちがいました。

 讃美歌21・280番「まぶねのなかに」290番「おどりでる姿で」にはそのような人たちと共に生きたイエスが語られます。モーセも預言者たちもまた神の正義と公平に生きました。


 おのれの「安心立命」に終始し、ひたすら言葉を聴くと言うことでは、神の御心を生きることにはならないのです。
 井上ひさしが吉野作造について語った講演を読みました。(『この人から受け継ぐ者』)彼の生き様はイエスを信じる者と在り方をわたしたちに問い、示しています。

 痛みを負う人たちに寄り添い、イエスが示された「神の国」をしっかりと見据え、この世に生きるものとして、それぞれが与えられた道を歩むことが出来ればと思います。