2019年 5月
        「元号」が変わるということを
                  わたしたちはどのように受け止めるのか    
                            
                               堀切教会 牧師真鍋孝幸
 元号が「平成」から「令和」に変わることが大々的に報道された。祝賀ムード一色に違和感を覚えるのはわたしだけなのだろうか。

 今、「朝まで生テレビ」を聞きながらこの文を書いている。司会者の田原総一郎が今回の祝賀ムード一色であること、「天皇制」議論がタブーとなり、マスメディアが右へ倣えの報道に対して苦言を呈していたことに少し安堵した。(議論は天皇制存続の感は否めなかった。)

 瀬戸内寂聴の作品では読んだのは題名は忘れたが母親が娘を棄てて男性の元に走った一人の女性を描いた作品を読んだことしかない。今回金子文子をとりあげた『余白の春』と彼女自身が書いた『何が私をこうさせたか』を読んでいる。関東大震災後、朝鮮人の恋人は朴烈と共に検束、「大逆罪」で死刑宣告を受け、その後、天皇の恩赦で無期懲役となることに対して抗議の意志をあらわし、獄中で抗議のため自死(縊死)し、23歳でこの世の生を終わる。

 その彼女が書いた本を読むと、無戸籍で貧困に喘ぎ想像を絶する少女時代、その後「在日朝鮮人」朴烈と出会い、激烈な恋愛をして、彼と共に国家権力によって検束される。

 天皇が「現人神」とされていた時代に恩赦を拒否し、信念を曲げずに生を終える彼女の権力に対する抵抗は特筆すべきことであると思った。

 柏木義円という人がいる。同志社で新島襄から薫陶を受け、信徒伝道師として安中教会に赴任し、その後安中教会の牧師として生涯を終える。しかしかれの眼は常に社会に向けられ、体制に迎合することなく、預言者としての役割を担っている。今回の報道を聞きながら、柏木義円の歩みをふりかえった。

 1938年で生を終えた柏木義円は、基本的人権・国民主権・国家神道解体・戦争と軍備の放棄が日本国憲法と教育基本法において実現し、国際連合が成立したことは知らない。しかし彼はまさにそのような国を希求した。

 治安維持法で言論が封殺され、軍が暴走して政治がこれを止め得なくなった時代に彼が歩んだ軌跡は耳目を傾けるに値する。

 イエスは常に弱者(「小さくされた人々」)に眼を向けられた。しかしそれは憐れみではなく、「共苦」(コンパッション)に他ならない。すなわち、自分の痛みのように他者の痛みを受け止める感性である。かわいそうだから、恵まれないのだから、憐れみを施すというようなことではない。共に生きる中で、放っておけない!という感情がそこにはある。損得抜きでその人に関わる行動がそこにはある。

 自分のこと、組織維持を考えるとき、わたしたちは権力に迎合する。時代の「空気」に流される。かつて教会は戦争を食い止めず、むしろ戦争を支持した。教会に全国募金をよびかけ、軍用機を献納した。そして「天皇制」を支持、国家神道を容認し、偶像崇拝として神社参拝を拒否した仲間を結果的には見捨てるという過ちを犯した。「あのときは仕方なかった」という人もいるが、それは獄に捕らわれ、殉教した人、植民地の朝鮮のキリスト者たちが神社参拝を強要され、殉教したその遺族に弁明できることなのか。

 今、わたしたちは「天皇制」について教会はどのように考えているのかを、わたしたちの立場を明確にしなくてはならない。

 十戒の第一戒を犯した罪を悔い改めなくてはならない。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20章3節)この戒めをわたしたちは心に留めることをしないならば、再び過去の過ち「いつか来た道」を歩むことになるかもしれないのだから。

 福音派とよばれているグループがある。その人たちが立ち上がった。戦争責任を明確にし、天皇を「現人神」とすることに対して、憲法「9」条がこれ以上骨抜きにされてはならない、戦争をする国になってはならない、ということをこのグループの人たちは自分の立場を明確にしている。

 加藤周一は晩年カトリックに入信し、キリスト者となる。広島の原爆の惨事を医師(血液学)として目の当たりにする。その後、彼は評論家として良識ある知識人として内外に知られる。

 彼は「天皇制」に対して厳しく批判する。天皇(人間)は悪くないが、天皇制は問題であるというような趣旨のことを述べていたと記憶している。

 阪神・淡路大震災の時、明仁天皇、美智子皇后は被災地に赴いたとき被災者に跪いて話を聞く、「何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要はない。現憲法上でも特別な地位に立っておられる方であってみれば、立ったままでも構わない」と「ひざまづく」という行為を江藤 淳は批判した。

 高貴な人が・・という考え方は「身分制度」を無意識のうちに肯定している。人間は皆、神の前に平等である。これがキリスト教の考え方の根底にある。身分の高い、低いという考え方は差別を助長する。容認する。だからそのような考え方は聖書を読む者たちはとらない。

 今回「祝賀ブーム」一色の中で、象徴天皇とは何か、はたしてキリスト教は「天皇制」を容認するのか、それぞれが考えるヒントの一助となることを願い、筆を置く。