2019年 12月
         現政権はフラシスコ教皇の思想を理解するのだろうか?

                                  堀切教会牧師 真鍋孝幸 
 朝日新聞は11月23日~26日に日本を訪れるローマ教皇フランシスコについての記事を数回にわたり掲載した。作家の高村 薫さんは現政権に政治利用されることをインタビューで懸念していた。また週刊金曜日11月22日号で編集委員でもある中島岳志さんは「教皇フランシスコの思想」という記事を掲載している。中島さんはその中で、2015年5月に『回勅 ラウダート・シ』を取り上げ、安倍政権に対峙する形で厳しい論評をこのように記した。

 『教皇フランシスコは、環境破壊や難民問題、格差拡大を「いのち」の危機と捉え、「解放の神学」に代わる「いのちの神学」を唱えている。
 彼はこの観点から、死刑廃止を強く訴える。人間は「造られたもの」としての有限性から逃れることができない。超越的な神のもと、不完全な人間には決定的な限界が存在する。そんな人間が、同じ人間の命を奪うことなどあってはならない。死刑は「いのちの神学」の命題に反する。このように見ていくと、教皇フランシスコの思想が、安倍内閣の姿勢と真っ向からぶつかることに気付かされる。
 新自由主義経済への懐疑、格差拡大への批判、難民保護、水道民営化反対、死刑廃止、東アジア和平…。教皇来日は、一種の爆弾である。安倍政権へのアンチテーゼ(対立命題)となる側面が強い。問題は、そのような教皇フランシスコのメッセージを、日本側がしっかりと受け止められるかにある。教皇来日を単なるお祭り騒ぎに終わらせることなく、日本の現状を顧みる重要な契機にしなければならない。
 キリスト教徒がどれだけ購読しているかはわからないが、門外漢と思われる彼が適切にヨハネ・パウロ二世に続き38年ぶりに来日するフランシスコ教皇に対する中島さんのコメントは適切である。
 彼の神学を「解放の神学」に代わる「いのちの神学」であると彼は受け止めている。広島・長崎でどのようなメッセージが語られるのだろうか。先の戦争で唯一の被爆国となった日本が教皇の来日でこの問題についてどのように受け止め、応答するのだろうか、お友だち内閣、「桜を見る会」での私物化をもみ消すために躍起になっている内閣に期待は出来ないが、少しでも壁を取り除くために奔走している教皇のメッセージに耳を傾けるならば、核の問題に対しても米国の顔色をうかがうことなく、核兵器廃絶、核の平和利用に対しても毅然とした態度でNoと言えるはずだ。』

 わたし自身は「いのちの神学」を展開する彼が死刑に対してNoを突きつけてくれるメッセージを安倍首相ら政府関係者に語られることを期待してやまない。

 わたしたちの教会は年に一度(今年は台風15号で延期)狭山事件で今なお「見えない手錠」に繋がれ、再審の扉が開かれる迄「石川一雄さん、パートナーの石川早智子さんを励ます会」を行っている。

 東京高裁が検察に対してすべての証拠開示を強く指示すれば、そしてその検察がそれに応じれば石川一雄さんの無罪は確定すると確信している。年に2回そのための集会が日比谷野音で行われているが、その集会には同じように弟袴田 巌さんの無実を信じ、支援者たちと共に姉の袴田秀子さんが毎回出席し、弟の無実を訴え続けている。11月20日朝日新聞夕刊で「死刑廃止へ つなぐ祈り」が掲載されていた。

 彼は1984年12月24日に志村辰弥神父から獄中で洗礼を受け、クリスチャンとなる。長い獄中での拘禁状態の結果、仮釈放後に日比谷野音で行われた同集会に姉の秀子さんと共に出席した彼のアピールは理解できないものであったが、「自分はやっていない」という主張は胸に響いた。

 東京ドームでのミサに彼が出席し、教皇と面会すると言われているが、果たして実現するのだろうか、ハードルは決して低くはないが面会が実現し、東京高裁が再審取り消しを撤回する契機となることを願ってやまない。

 えん罪になる可能性は誰にでもある。明日は我が身である。わたしは「狭山事件」支援運動にかかわるまでそれはわたしには無縁であると思っていた。しかし、痴漢で逮捕された人が、「えん罪」で逮捕、起訴されたとき、その無罪を勝ち取るためには膨大な時間・労力と経済的な負担がかかる。そのことを周防正行監督は「それでもボクはやっていない」という作品で司法裁判の現実を描いている。自白したのだから、とわたしたちは警察によってもたらされる情報での報道でその人を犯人とするが、それがいかに印象操作であるのかを、えん罪裁判で再審を求めている人たちの「声」に耳を傾けるとき、痛切に知る。

 フランシスコ教皇はイエズス会から選出された最初の教皇である。かつてイエズス会のフランシスコ・ザビエルは日本に宣教師として派遣された。その後、カトリック教徒は宗教弾圧を経験し、殉教したり、隠れキリシタンとして自分たちの信仰を貫いた。そして長崎のカトリック教徒は迫害・弾圧、差別の苦難を経て、先の大戦では「被爆者」となった。当事者しか語れない「苦難」の歴史を背負っている。

 そのような被爆国に肺の感染症で手術を余儀なくされた若き司祭が教皇として来日する。中島さんが言うようにお祭り騒ぎとして歓迎することなく、彼のメッセージに耳を傾けたい。最後に教皇の言葉を紹介したい。

 「『殺してはならない』というおきてが人間の生命の価値を保障するための明確な制限を設けるように、今日においては『排他性と格差のある経済を否定せよ」ともいわねばなりません。この経済は人を殺します。
 『重傷を負って病院に担ぎ込まれる人に向かって、コレステロール値や血糖値を尋ねても無駄。まず傷を癒やすのが大事なことだ』
 『世界の周縁に生きている人々に心を開いていくようにしましょう。たくさんの人が危険と苦しみが隣り合わせの状況で生きることを余儀なくされています。そこは近代世界が生みだした世界です』
 『「真の愛は、愛すると同時に愛されることです。愛を受け取ることは、愛を与えることよりも難しいものです』」

 宗教の垣根を越えたメッセージがもたらされると信じ、来日を歓迎します。