2019年1月
                 歴史の証人として、今を生きる
              
                               堀切教会牧師 真鍋孝幸   あと三日で2019年が終わろうとしている。日本では天皇の「退位」が2019年4月30日に行われ、元号が変わる。そして「大嘗祭」が行われる。秋篠宮が「出来る範囲で身の丈にあった儀式で行うのが本来の姿ではないのか」と意見を述べたが、宮内庁長官がこの意見を不問にふしたことが彼の誕生日の会見で明らかにされた。

  王制を考える時、確かに聖書でも肯定しているような記述があることは明らかである。サムエルは民衆が王を切望した時「あなたたちの上に君臨する王の権能は次の通りである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前に走らせ、千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を作らせるためである。」<中略>「また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」(サムエル記上8章10、17節)このようにサムエルが主の言葉として語るも、民衆は聞き入れず、最初の統一イスラエルの王として「サウル」が選ばれる。

 人々は困窮になればなるほど強いリーダーを切望し、国家エゴに走る。経済が奮わず回復の兆しがないような閉塞状態になればなるほど国民はあのリーダーならば何とかしてくれるという幻想を抱き、政治家はその幻想を利用し、その結果、ポピュリズムが生まれる。

 わたしたちはそのことを歴史から学んでいるはずだが、不安がよぎればよぎるほど強いリーダーを切望する。
 今の時代「自国第一主義」・「排斥・排除」を掲げる指導者が出現し、連鎖反応のように様々な国でそのようなリーダーが選ばれている。

 20世紀は戦争の世紀であった。そしてその痛ましい歴史の教訓から「国際協調主義」が掲げられ、自国の利益のみを主張する政治家は指導者としてはふさわしくないと考えられてきたが、歴史の歯車は明らかに<協調から対立>へと舵を切っている。

 神話から日本の歴史を語り、過去の植民地主義を肯定し、かつての戦争は「侵略戦争」ではない、と抗弁し「慰安婦」は強制された訳ではない、「徴用工」も同じであり、労働者であるという定義で、過去の植民地支配を肯定・主張をするような意見が支持されることは、この国のかたちを歪めるのではないかと危惧するのはわたしだけなのか。

 現天皇はリベラリストからも一定の支持をされ、祈る人として語られている。現憲法第一条には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と記されている。

 国民(わたしたち)はどれだけ、「大嘗祭」について知っているのだろうか。皇室をどれだけの国民が受け入れ、支持しているのだろうか。
 「祈る天皇」という象徴行為を積極的に評価し、そのような天皇の在り方を評価し、自分で考えているのだろうか。
 この「退位」という歴史の証人としてわたしたちは、未来の子どもたちに「この国のかたち」を示すことが出来るのだろうか。

 歴史の歯車を後戻りさせるような事象に対しては、しっかりと見据え、過去の侵略戦争、植民地主義を認識し、反省しなくては「対立」は深まるばかりではないのか、昨今の報道を通してわたしは考え込んでしまう。

 新しい年がはじまる。イエスの誕生の祝いに駆けつけたのは過酷な労働を強いられ、卑賤というレッテルを貼られた「羊飼い」たちと東方から来た「占星術師」であった。そして「占星術師」は夢でヘロデの所には帰るなというみ告によって、別の道を通って帰って行った。という聖書の言葉を深く各々が黙想して新しい年を迎えよう。