2018年 7月

               2018 年ロシアワールドカップで考えたこと  
                                   堀切教会牧師 真鍋孝幸
 今回のワールドカップで、ポーランドには日本は1 対0 で敗れたが、通算1 勝1 引き分けの勝ち点4 でセネガルと並び、フェアプレーポイントで上回った日本がH 組二位で、決勝トーナメントに進出した。次はFIFA ランキング3 位のベルギーと対戦することとなった。インターネットの予想によれば、ベルギーが61 %の勝率で日本に勝利し、引き分けは21 %、日本の勝率は14 %である。果たして日本はベルギーに勝利し、次に駒を進めることが出来るのか。サッカーファンだけではなく、にわかサッカーファンも固唾をのんで日本の勝利を願っている。

 今回の結果を受けて、歓喜に沸き上がるファンは、渋谷のスクランブル交差点で、その勝利に酔いしれた。この様子をテレビの映像を見てわたしは、スポーツナショナリズムということについて考えた。

 ある人のこのような文章が目にとまった。「サッカーとナショナリズムには強い親和性がある。サッカーには、ひとつの同じチームを応援する人たちの『共同体=ネーション』をつくる回路があるからだ。この流れの中で2020 年東京オリンピックに突入するのだろうか?「がんばれ!ニッポン」という声が方々でこだまし、東京オリンピックを迎えるのだろう。限界までに鍛え上げた選手たちが、それぞれの競技で記録をかけて闘うことは美しいが、その背後に国を背負うということは果たして正しいのだろうか。

 わたしが小学生の時に前回の東京オリンピックでマラソンランナーの円谷幸吉さんは銅メダルを獲得した。けれどもメキシコオリンピック開催の年「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。」の言葉を残して、27 歳で自らのいのちを絶った。この報道を聞いたとき、彼はオリンピックの犠牲になったと感じた。

 ワールドカップで日本が一丸となって、サッカー観戦をしている時、沖縄は73 年目の「慰霊の日」を迎えた。辺野古基地建設は着々と進められている。自然を破壊し、ジュゴンが生息し、珊瑚礁の青い海にV 字型の滑走路が作られようとしているのに、「反対」の声は盛り上がらない。

 先日も労働組合であろうか、錦糸町駅前で「辺野古」埋め立て反対のためにアピールし、
署名を集めていたが、ほとんどの人は無関心で通り過ぎていく。

 この日、14 歳の中学生相良倫子さんは「生きる」14 歳祈りの詩の最後はこのような言葉で結ばれていた。「私は、今を生きている。/みんなと一緒に。/そして、これからも生きていく。/一日を大切に。/平和を想って。平和を祈って。/なぜなら、未来は、/この瞬間の延長線上にあるからだ。/つまり、未来は、今なんだ。」

 先の大戦で、沖縄では県民の4 人に一人が犠牲となり、戦後も米軍に占領され続け、基地がない沖縄は未だ実現されることなく、現政権には「悪くても県外」という考え方はさらさらなく、世界一危険な「普天間基地」を辺野古に移転させなければ、という考え方で、県民の声(選挙)を無視して、強引に進められているのに、News では取り上げられていたが、ワイドショーなどでは私が知る限り、取り上げてはいなかった。

 沖縄は「安保」の犠牲となっている。米軍基地の70 数%が沖縄に集中しているのに、この現実はわたしたちには所詮他人事でしかない。沖縄の痛みを自分の痛みとして、受けとめる感性はない。スポーツナショナリズムに沸いていることで果たしてよいのだろうか。
この痛みの「歴史」を忘れることなく、ベルギー戦を見守りたい。