南北会談の「共同宣言」が実行されることを願う



                                    堀切教会 真鍋孝幸
 財務省が前事務次官に「セクハラ」行為があったと記者会見で明らかにしたその日、歴史的な南北首脳による会談が「板門店」で行われた。

 映像からふたりの首脳は、同じ言語、文化、食生活を持つ「朝鮮民族」であることを世界は認識したと思う。

 1953年、会談の行われた「板門店」で「休戦協定」が締結されてから68年間「南北」は分断された。同じ民族が戦争で離ればなれになるという悲劇は想像を絶することであろうに違いない。

 宣言に盛り込まれた文言が実行され、完全非核化を通じ、核のない朝鮮半島を実現し、そして終戦へと向かい、恒久的な平和がこの地域に根づくことを切望している。

テレビのインタビューで韓国の若者が南北の和解が実現すれば、徴兵制がなくなることを期待しているという声が放映されていた。

 日本には徴兵制もなければ、まして軍隊もない。しかし自衛隊がある。自衛隊は専守防衛のための装置であって、軍隊ではないといっている。けれども現政権は、現憲法では自衛隊は「違憲」であるという憲法学者が多くいるので、「改憲」して自衛隊の存在意義を明確にしなければならないと、改憲の意義を強調している。

 ある若手の憲法学者はテレビのインタビューにこたえて、「安保関連法案」で「集団的自衛権行使容認」されたことで、自衛隊が「集団的自衛権を行使」してどこにでも行けることになったことへの懸念を語っていた。

 現憲法の三本柱、特に憲法9条を平和の道標と考えているわたしにとって、「改憲」はその精神を逸脱し、歴史の針を後戻ししているようにしか思えない。

 改憲が国会で可決され、「国民投票」になれば今の投票率からすれば改憲は現実味をおびてくると言うことは考えすぎなのだろうか。

前回の選挙から18歳で選挙権が与えられたことは望ましいが、果たしてどれだけの若者が前回選挙に行ったのだろうか。そしてこの有権者数が国民投票としてカウントされることを考えるとますます悲観的にならざるを得ない。
憲法とは何かが、議論され、みんなが憲法に関心を持つことは望ましいことである。けれども現憲法の良さが十分に議論されることなく、「戦後レジーム」から脱却するためには改憲の議論を積極的に交わさなければならないと主張する人たちをわたしは支持することは出来ない。

 学校の道徳が教科となる。「国と国土を愛する」という項目がその中にあることがテレビで紹介されていた。

 戦前に反戦を貫き、山田洋次監督が描いた映画「かぁーべえ」の夫はその範疇に入るのか、平和を願い「非国民」というレッテルを貼られ、軍国主義に対していのちを賭して闘った平和主義者は入るのだろうか。教科書を見てはいないが、反戦主義者や大逆事件で起訴され、刑が執行された人々は「愛国者」としては語られないだろう。『蟹工船』で過酷な労働を告発した小林多喜二はどうであろうか。

 国を愛する、国土を愛するということは人それぞれのはずで、これこそが「愛国」であるという定義は成り立たない。ましてや戦争で犠牲となった人たちを国家で顕彰し、空襲で犠牲になった人たちと分けるということは本来あってはならない。

「北朝鮮脅威論」の中で、迎撃ミサイル、地上イージスアショアーが配備されようとしている。辺野古基地建設は反対派の声を封じ込め、着々と自然破壊のための埋め立て工事が進められている。高江のヘリパット工事も同様である。

 基地反対の人たちは愛国者として語られるのだろうか、語られるはずはない。そのように考えると、為政者に反対している人たちは「愛国者」としては道徳の対象にはならないのではないのか。

 M・キングが暗殺されて50年が経った。10年前、そして今年の「朝日新聞」の特集記事は彼の夢は未だ来ていないという現実を取り上げていた。

 非暴力で権力と抵抗することは容易いことはではない。けれども、わたしはその道こそが真の平和(イザヤ書2・4、11・6~10)に繋がると信じている。

 今回の「南北首脳会談」、そしてそれに続く「米朝首脳会談」によって朝鮮半島の完全な非核化、韓国からの米軍撤退が行われることを願っている。それが実現すれば、北の脅威論を唱えた人たちは軍備を拡張することが出来なくなるはずだ。

 完全な平和を祈り、イエスが語られるシャロームに耳を傾けたい。