【二人のアダム】
                   ローマ信徒への手紙5章12〜14節

 5年ぶりに入院しました。前回の入院は、約4週間でしたが、今回は一週間足らずの入院生活でした。持病のせいで手術するための麻酔を腰椎麻酔にするのか、全身麻酔にするのかで、入院当日は、検査が大変でしたが、無事に手術を終え、先週は病院から外出許可を戴いて、宣教の役目を果たすことが出来ました。そして今日は無事に退院して、この場所で共に聖書を分かち合うことが出来ることを、神さまに感謝します。
 
 入院中は集中して本を読むことが出来ました。 私が入院した病室は外科と泌尿器の方々が、ほぼ半分の割合でおられました。私以外は、ガンで手術をされた人、ガンの再発による再入院であり、抗がん剤等による治療中の人たちです。副作用に耐えながら抗がん剤治療をするということの大変さを知りました。私が牧師であることを知り、様々な質問をされました。特に「3.11」をどのように受けとめているのか、死についてどのように考えているのか…です。

 今、青野太潮さんの講演集『十字架の神学をめぐって』(新教新書)を読んでいます。彼は、伝統的な「贖罪論」として「十字架」を捉えるだけではなく、無力・弱さの象徴として、イエスが十字架で殺されたその時、発せられた「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」(マルコ15章34節)イエスの最期の言葉に注目します。イエスが、人間として十字架で死なれた(「殺された」・フィリピ信徒への手紙2章6〜8節)ということを私たちも忘れてはなりません。

パウロはここで、最初の人アダムについて語ります。創世記2章7節〜3章を読むと、人類の始祖とされた彼らが神さまに対して、どのような「罪」を犯したのかが記されています。キリスト教の教理ではこれを「原罪」と言います。この考え方を理論づけたのが、5世紀の人、アウグスティヌスです。彼は、同時代の人、ペラギウスと論争します。

 ペラギウスは「すべての子どもは堕落以前のアダムの状態に類似した罪のない状態で生まれてくる。信仰の開始は神の恵みにではなく、人間の意志にあった。」と自由意志論を説いたのに対して、アウグスティヌスは、「信仰の開始を人間の自由意志におくのではなく、それを神の主権的行為の結果である。」と主張します。

 パウロは、Tコリント信徒への手紙15章45節で、最初の人、最後の人という言い方をしています。すなわち、最初の人、アダムによって、死がもたらされたが、最後の人(イエス・キリスト)によって、いのちがもたらされたと言います。

 原初史(創世記1〜11章)は、「バベルの塔」の物語で幕が閉じられます。そして、その最後は、「散らされた」という言葉で結ばれています。その後、族長アブラハムが登場します。彼は神さまの一方的な好意によって、祝福された人生を送ります。(創世記12章〜25章11節)

 私たちも資格がないにも関わらず(ローマ5章6・8節)神さまの好意によって、その列に加えられていることが「約束」されています。

 中世の修道院で交わされた、メメントモリ「汝死ぬことを覚えよ」と言う言葉は、キリスト者にとっては、裁きの言葉ではありません。それは、恵みの言葉であり、祝福の言葉です。

 最後の人アダムによって、私たちにも「祝福」がもたらされます。その恵みを感謝して、それぞれの遣わされている現場で生き、主を証しするものとして歩んでいきましょう。