【確かさの根拠】
                                ローマ信徒への手紙5章1節〜8節
 手塚治虫さんの「アトムの哀しみ」という文章を読み驚愕しました。彼はいいます。「鉄腕アトムで描きたかったことは、一言で言えば、科学と人間のディスコミュニケーション(意思疎通の欠如)ということです。…

 「神のようになろう」科学は万能で、人間は自然を支配し、コントロール出来ると言う傲慢さに、私たちは気がつかねばなりません。あのバベルの塔の物語までの「原初史」(創世記1〜11章)は、そのことを如実に物語っています。すなわち、人が神さまとの「約束」を破り、その結果、神さまと人との関係は断絶し、人(男と女)はそれぞれ労働の苦しみと産みの苦しみを味わい、エデンの園から追放され、死すべきものとされます。この一連の「物語」で、聖書が語る「罪」の問題へと私たちは導かれます。

 「罪」とは、神さまという的を外れることであり、別の言葉で言えば、関係の断絶、または「疎外」ということになります。旧約聖書の時代は、そのための和解の供儀(くぎ)の献げ物として、動物が主に献げられました。けれどもパウロは、そのような関係を修復する「道」はイエス・キリストを信じることであるといいます。3〜4章では、「律法を遵守し、割礼を受けた者だけがその道に入る資格がある。」と考えていた敵対者に対して彼は新しい「道」を示します。5章から8章では、今まで語ったことを肉付けし、信仰に生きるとはどのようなことなのかを、さらに深めて語ります。ここでパウロは、私たちは「神との間に平和を得ている」といいます。「平和を得る」ことで、私たちは喜びを生きる者へと変えられるのです。けれども、ヨブのような「義人」と呼ばれた者も、試練は避けては通れませんでした。

 今回の東日本大震災で、「なぜ、あの人は死に、なぜあの人は助かったのか」という問いに対する答えは、容易には見いだすことは出来ません。ある人は「無常」を感じ、頭を垂れて佇み、ある人は、実存的な問いを問い続けていくのかもわかりません。けれども、私たちはそのことを問い続けながらも「神との平和を喜ぶ」のです。なぜならば、私たちはイエス・キリストに信頼して歩むということを通して、どんな険しい道でも、その道を歩み、壁を乗り越え、逆境を乗り越えることが出来る「生きる勇気」が与えられているからに他なりません。3〜5節で「苦難をも誇りとする。」忍耐は練達を、練達は希望を生むというのです。この言葉にふれるとき、私たちはホッとします。キリストを信じたから、私たちは病気にならない災害に遭わないなどということは決してありません。どんな人だって、多かれ少なかれ、一生の間には、筆舌に尽くしがたい苦難を経験します。私たちもそれを避けて通ることは出来ません。

 どんな「苦難」に遭おうとも、その苦難を乗り越える術が、神さまから与えられます。すなわち、主はわたしたちの側らにいて、導かれているのです。だからこそ、私たちは苦難を誇りとし、恥としないのです。(ローマ1章16節)

 今日わたしは、「確かさの根拠」という題をつけました。新共同訳などでは「希望」と訳しています。希望とは、先が見えていること、実現することを待ち望むことです。けれども、そのような先が見えない厳しい「弾圧」下の中で、パウロは預言者イザヤやエレミヤのように「神の言葉」を語ります。

 卒業式などで「君が代」不起立した原告に対して最高裁は、憲法十九条の「間接的制約」に当たるが、としつつも「憲法違反とはならない」としました。それが今の時流の流れです。そのような時流に流されることなく、主が与えられた道を共に歩んでいきましょう。