【約束は実現される】

 『福音と世界』に連載されている「交響する啓典の民」には、「弱さ」へと回心するパウロと言う伊藤乾さんと荒井献さんとの対談が掲載されています。大変興味深く読むことが出来ました。そこには、「日本は強い国」「がんばれニッポン」というようなシュプレヒコールの危うさが語られています。対談の中で、荒井献さんは、パウロのダマスコでの回心は、「強さから弱さへ」の回心であると言います。そこで取りあげられているのが、佐藤 研さんの「はじまりのキリスト教」の中にある「?殺柱」すなわち、「十字架」です。木に掛けられたものは呪われる(ガラテヤ3・13)このことを信じて疑わないパウロにとってそのイエスを「神の子」とする信仰者は、ファリサイ派パウロには、到底受け入れられないことでした。だからこそ、徹底的に「この道の者」と呼ばれた者(ヘレニスト)を迫害・弾圧したのです。

 この対談の最後は、このような言葉で纏められています。パウロがそれらをすべて捨て去って「?殺柱のイエス」と共に歩む決意をしたということは、「弱さの究極」なのです。この対談を通して、最近観た映画「デンデラ」を思い起こしました。姥捨て山に捨てられた老女50人たちのその後が、描かれている作品です。そこには、奇妙なコミュニティが形成されていました。けれども、一匹の巨大な人食い羆の襲来により、脆くもその共同体は破滅してしまうのです。この作品には捨てられた老女の悲しみと怒りが表現されています。

 私たちは「強さに生きるのではありません」「弱さ」に生きるのです。パウロという人を理解するとき、私たちはこの「弱さ」をキーワードに据えなくてはなりません。ここで語られているアブラハムとサラも「老人」です。けれども、神さまは「老人」となったアブラハムに「天を仰いで、星を数えることが出来るならば、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」と言い、彼はこの言葉を受け入れます。そして紆余曲折を経て、アブラハム百歳、サラ90歳の時に息子イサクが与えられます。パウロは、望みなきときにもなお、望み続けるアブラハムの「信」について語ります。ある人は、ここで信仰は何の望みもない現実を見る、絶望を直視する、しかも信じる、と言います。不信仰は、否定ではなく、拒絶である。神の約束の放棄である。と言います。二人の肉体は弱り切っていました。

 ある訳で読むとこのようになります。
 「自分の体がもはや生気を失い、サラの胎も生気を失っていることを承知していました。」
これは、まさに死すべき体を意味しています。「老人」である二人の間に子どもが生まれると言うことはありえないことです。もしも、このような事が現在起きたならば、世界中のマスコミはこぞってこのことを報道するに違いありません。パウロは、それにも関わらずアブラハムは、神の約束を信じて歩み続けたと言うのです。これが何を意味するのでしょうか。そのことをわたしたちは考えねばなりません。不可能を可能にされる。石ころからでもアブラハムを起こすことがおできになる。神さまです。「人間に出来ることではないが、神にはできる。神には何でもできるからだ」(マルコ10・27)と言葉は真実です。

 神に信頼するとき、約束は実現します。そして、それはわたしたちの力が及ばざる時にこそ、可能となるのです。「老人」アブラハムとサラに誕生した子どもは、まさに神さまの「約束」の成就でした。


 わたしたちの生き方が「強さから弱さ」と変えられ、どんなときでもわたしたちと共に神さまはおられるということを信じるならば、アブラハムになされた約束がわたしたちにも実現するのです。