【裁かれる人】
                    ローマ信徒への手紙2・6〜16節


 ヤコブの手紙の中心メッセージは、「行いがともなわない信仰」です。(ヤコブの手紙2・14〜17、26節)私たちは「山上の説教」(マタイ5〜7章)を共に分かち合った後、このヤコブの手紙を読みました。「山上の説教」同様、キリスト者の生きざまが語られています。
 
 パウロは、すべての人は神さまの前に道をふみはずした「罪人」であると言い、1章20、2章1節で、「弁解の余地がない」と言います。「自分だけは特別だ」という考え方、すなわち「選民思想」から生じる特権意識がユダヤ人にはあることを、先週は「偶像崇拝」をしないわたしたちは、「あなたがたとは違う。」(マタイ7・1〜6節)という考え方の過ちを「あなたがたは自分の目の中に丸太があるのに気づかず、他人の目の中にあるおがくずが見えるのに」(7章4節)というイエスの言葉を通して考えました。
 
 パウロはここで、まず、詩篇の62編12節(70人訳)を引用します。
「主よ、あなたは人おのおのの業にしたがって、報いる方です。」ここで、パウロは律法を持つ者(ユダヤ人)も持たない者(ギリシャ人・異邦人)も同様に主の「来臨」の時に裁かれると語ります。

 けれども、次の人たちには、永遠のいのちが与えられると言います。ここでわたしたちが間違ってはいけないのは、これこれのことをすれば、永遠のいのちが与えられると言うように交換条件としてこれを捉えることは誤りであると言うことです。永遠のいのちとは、神とのつながりに生きることです。7節には、そのような人について語られています。「忍耐強く善を行い」このことを私たちは、道徳的な一面で捉えることはできません。それは、マタイ福音書25章40節のみ言葉に生きる人です。8節の「反抗心にかられ」は、主人のためにではなく、金銭のために働く労働者のことから派生した言葉で、選挙に対して不正、賄賂、その他の私腹を肥やすために国政を利用する行為を指していることから、党派心、自己本位、分争心などと訳されています。
 
 パウロはこの言葉を悪のカタログの中に入れています。(ガラテヤ5章20節)そして9、10節へとつながります。11節では、神は人を分け隔てなさいません。(顔により偏り見ることはしない)といい、イエスの御心に生きる人、すなわちユダヤ人、異邦人の区別なく、律法の本質に生きる人には、栄光と誉れが与えられるのです。そのような者こそが、幸いな者と言えるのです。けれども、わたしたちは知らなければならないのです。「終末」の時には、私たちはすべて例外なく、主の前に裁かれる存在です。
 
 四旬節の第5主日で、教団の聖書日課は、ルカによる福音書20・9〜19節が読まれます。ここで語られているぶどう園を乗っ取る農夫とは、イスラエルの宗教指導者です。彼らは自分たちには邪魔な存在としてひとり息子を殺す(十字架に架ける)のです。そのため、彼らは裁かれます。最後に詩篇1編を読みます。ここでいわれている幸いな者となるために、「明日地球が終わろうとも、わたしはリンゴの木を一本植える」という信仰を心に留め、日々の生活を送る者でありたいと願っています。