【弁解の余地はない】

                  ローマ信徒への手紙1・18〜23 

 先週の礼拝の司式H・Sさんの祈りは、衝撃的でした。「ニュージーランドの地震で建物が崩壊し、瓦礫の下敷きで犠牲になった人たちを思い、なぜ、神さまはこのような地震をゆるされるのですか。」と祈られたからです。そしてわたしたちは、3月11日金曜日、午後2時46分マグニチュード9.0の地震とそれに伴う津波で、関東・東北地方は死者と行方不明合わせて二万人以上、負傷者、被災者の甚大な被害を受けました。この時、わたしたちは問うのです。なぜ、神さまは私たちにこのような自然災害をゆるされるのか、この問いこそが、ヨブ記の問いでもあるのです。

 「利益もないのに神を敬うでしょうか。」(ヨブ記1・9)これは神とサタン〈神に敵対するもの〉の会話です。その後、主人公ヨブは全財産を奪われ、妻以外の家族はすべて奪われます。けれども、「このような中でもヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」(ヨブ記1・22)のです。再び神とサタンが対話し、ヨブのいのちを奪わないという条件で、サタンの手にヨブを引き渡されます。ヨブは、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病に罹り、妻からも「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう。」(ヨブ記2・9)と言われます。それに対してヨブは「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(ヨブ記2・10)と答えるのですが、次第に暗闇の淵に落とされていきます。三人の友人からも(エリファズ、ビルダド、ツォファル)からも理解されることなく一人孤独の中で、その試練を耐え抜きます。やがて、嵐の中でヨブは神さまの声を聞き、「知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。」〈ヨブ記38・2〉語りかけられ、彼は答えます。「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論など出来ましょう。わたしはこの口に手を置きます。」〈ヨブ記40・4〉と対話する中で神の経綸とは何であるのかを知らされ、この物語は再びヨブが祝福を受け、幕を閉じます。

 自分たちは、何でも出来る。科学は万能である。と言うことの中に、大きな落とし穴があるのです。自然災害とそして人間の叡智が結集されてつくられたはずの「核」エネルギー(原子力)によって、わたしたちは今、深刻な状態を迎えねばならないかもわからないのです。神の経綸を蔑ろにして、神ではないものを神とする時、(「金の子牛」の話 出エジプト記32・4、ホセア書8・5、列王記下10・29)正義は踏みにじられ、神でないものが神とされるのです。ここで「弁解の余地がない」といわれているのは、ギリシャ人ですが、わたしたちも同様です。

 この四旬節を迎えるにあたりわたしたちは、マタイ4・1〜11節の「荒れ野の誘惑」物語へと導かれるのです。この3つの誘惑はいずれも、自分で何でも出来ると言う誘惑 神を差し置いて自分で何でも出来ると言う考え方に対して、イエスがそれは違うと言うことを身をもって示されるのです。

 異邦人(ギリシャ人)は、様々な自然の中に神を見いだしました。けれども、その関係は極めて曖昧なものだったのです。そのことを心に留め、「弁解の余地はない」というパウロの厳しい言葉に耳を傾け、神の経綸とは何なのかを聖書を通して考えて行きたいと思います。