【アブラハムの懐に抱かれて】part2
ルカによる福音書16章19~31節      
                           
 ヨーロッパではシリアの戦禍を逃れ、命からがらヨーロッパにたどり着く人たちが後を絶たない。『福音と世界』にドイツ通信を連載している秋葉睦子さんの10月号の「難民への宣教はありか?なしか?」と言う記事を読んで考えさせられた。

 ドイツの主流教会(EKDドイツ福音主義教会)カトリック教会とそうではない教会の対応の違いがレポートされていた。後を絶たない洗礼志願者に対して、主流教会は慎重である。しかし自由教会は、積極的に難民のために教会内にテントを作り、難民を受け入れている。その結びで彼女はこのように書いていた。「排外主義や人種差別的な主張は論外としても、それぞれのキリスト教会の立場からの意見はわからなくはありません。しかし、様々な理由で命がけで逃れて来た難民の人々が、その苦難の中で、道しるべとなるものや、対話する誰かを切実に求めていることは紛れもない事実です。EKD、カトリック教会、自由教会、その他の教会が協力して多国語での案内紙を作成したり、信仰準備コースを開くなど、神を求めている人々に寄り添い、導くため、できることはまだまだあるはずです。ドイツのキリスト教会への神さまからの大きな宿題です。」と書かれていた。

 先週は、アブラハムの懐にラザロは抱かれたということを聖書から分かち合った。彼(アブラム)の父はバビロンの戦火の中で、難民となりハランに移住し、その生涯を閉じる。創世記12章~25章11節までには、波瀾万丈の生涯を送った彼の旅が物語られている。アブラムが99歳の時、「これがあなたと結ぶ契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたはもはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王なる者たちがあなたからでるであろう。」と言われた神に従って、彼は歩む。彼にはたくさんの資産が与えられる。しかし、彼は「寄留者」のままである。しかもその状態は、ヤコブまで続く。経済的に恵まれているようで、いったん家畜が死ねば財産は藻屑となってしまう。それが旅人「寄留者」アブラハムの姿である。しかしどんなことがあっても最終的には、神を信じて歩み続ける。その彼の生き方を神は祝福される。そして彼は「多くの国民の父」、神を信じた信仰の先達となる。

 パウロによれば「無割礼」の時から彼は祝福されていた。そこには神の選びが背後にある。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」申命記7章7節

 これが神の選びの本質である。神は寄留者「難民」アブラハムを祝福された。彼のことはユダヤ教、キリスト教、イスラム教が「信仰の父」として尊敬している。しかし申命記のことばに従えば、彼は「小さくされた者」であった。そのアブラハムの懐にラザロは抱かれている。すなわち祝福されている。

 神の宴の席にいる。その光景を見ていたのが、毎日贅沢三昧の生活を送っていた金持ちである。彼は願う。わたしの兄弟は5人いる。どうかわたしと同じ過ちを犯すことがないように・・それに対してアブラハムは「お前の兄弟たちはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるが良い。」さらにことばは続く「もし、モーセと預言者に耳をかたむけないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」この5人とは、誰なのか。明らかなことは金持ちの兄弟であるということ、そしてこの譬えが語る金持ちが14節に出てくる「金に執着するファリサイ派」であるとするならば、その問いへの答えはおのずからあきらかとなる。天にある喜びとは、失われた者が見いだされることである。共に喜べないのはあの二人息子の譬えでは兄息子であった。モーセと預言者のことばに耳を傾け、その言葉に生きているならば、ラザロ同様彼らもまたアブラハムの懐に抱かれていたはずである。

 アブラハムは、欠け目のない完全な人間ではない。多くの問題を抱えていた。けれども彼はどんなときにも、最終的には神を信じたのである。

 主は「小さくされた者」たちから祝福のみ手を伸ばされる。その真理をわたしたちはこの譬えを通して知らされている。