【アブラハムの懐に抱かれて】 part1
ルカによる福音書19章19~31節
                        
 イエスはたくさんの譬え話をされているが、名前が出てくるのは希である。ラザロの名前の意味は「神に助けられた者」である。ヨハネ福音書11章に登場するベタニアのラザロを念頭に入れてイエスが語られたのかは不明である。彼は贅沢三昧の暮らしをしている金持ちの門前で物乞いをするような生活を強いられていた。

 20代の時に読み、衝撃を受けた『富めるキリスト者と貧しきラザロ』 (キリスト教社会倫理の今日の課題 H.ゴルヴィツアー 日本基督教団出版局 1973年)を読み直した。そこには、第一世界と第三世界という社会状況の中でラザロとは誰かが問われている。第一世界に住むわたしたちはラザロなのか。ラザロはできものだらけで誰からも援助されることなく、その金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたい。そしてそのラザロに犬がやって来てできものをなめていた。としるされている。

 わたしたちは「貧しい」というと「心の」をつけて考えるかもしれない。しかしここに登場するラザロは極貧の状態で、息も絶え絶えで金持ちの門前に横たわるしかなかった。それとは対照的なのは金持ちである。彼は紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日贅沢三昧の暮らしに明け暮れていた。ラザロも金持ちもこの世の旅をおえることになる。そしてアブラハムの懐に抱かれていたのは、生前物乞いをするしかなかったラザロであった。一方金持ちは苦しみもだえている。金持ちは「大声で、『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます』その金持ちに対して、アブラハムは『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。』」と金持ちに対するアブラハムのことばが語られている。その後を読んでもそのことばの厳しさに唖然とする。

 この譬え話は、14節に登場する金に執着するファリサイ派とは無関係ではない。ルカは12章13~21節の「愚かな金持ちの譬え」同様に「所有」と言う呪縛から解放されていない者に対して、敵愾心、憎悪、嫌悪感すらルカは持っている。この金持ちはそこにいるラザロに目を向けることはなかった。彼にとってラザロは横たわる存在でしかない。認識はするが関係性をもつことはなかった。

 わたしたちは第一世界に住んでいる。毎日贅沢な生活、ブランド品で身を飾ることはないが、雨露をしのぐ家に住んでいる。すなわち衣食住が確保されているならば、ラザロではない。イエスがここで語られたラザロはファリサイ派、サドカイ派のいずれでもなく、15章1節に登場する徴税人や罪人である。すなわち「小さくされた者」たちである。神の恵みの外にあるとファリサイ派や律法学者たちからレッテルを貼られたひとたちである。15章の文脈で言えば失われたひとたちである。その失われた者を見いだされたのを喜ぶことが出来なければわたしたちは金持ちということになる。M・Lキング牧師は、暴力よりも恐ろしいのは「無関心である」と言っている。苦しんでいる人がいるのに見てみないふりをするのがわたしたちの姿である。「小さくされた者」に関わらないのが教会の姿であってはいけない。(マタイ25章45節)十字架と復活そして再臨までの「中間時」を生きるのであればなおさらではないか。