【神に属する者】
ヨハネ福音書8章37~47節
 江東伝道所牧師 小森裕之(交換講壇)
                          
 この8章は主イエスとユダヤ人たちとの対立論争物語です。1世紀末、ユダヤ教の会堂と共存してきた福音書記者ヨハネの属する教会がユダヤ教の一派ではないとされ、異端として、迫害、追放されます。その出来事が背後にあって、この論争は展開しています。この論争の記事を通して、ヨハネの教会つまり私たちキリスト者は新たに神から生まれた民「神に属する者」であることが示されていきます。

 ここで登場するユダヤ人たちは、39節、「私たちの父はアブラハムです。」と言います。彼らは主イエスの言葉尻をとらえたかたちで、父を神ではなくアブラハムと言っています。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」

 アブラハムは、75歳の時に、主の言葉を信じて、生まれ故郷であるハランの地を離れて約束の地カナンに向かって旅立ちました。そして、年老いた妻サラとの間に子どもが生まれることがつげられ100歳の時に跡継ぎのイサクが与えられました。そして、今度は、そのイサクを焼き尽くす献げ物としてささげよと命じられて、それを実行しようとしたのです。神によって、一度与えられた子どもを、神に命じられてささげようとしたのです。そこまでして神を信じ続けた、神の言葉を聞き、それに従い続けたのです。それは不条理としか言いようのないことです。しかし、それを神の御心として受け入れたのです。神の言葉に従い続けたのです。彼の姿勢こそが、「アブラハムの業」であり、彼はそれゆえに「信仰の父」と呼ばれているのです。

 主イエスは敵対者に皮肉をこめて「自分の業をしている」と彼らの律法主義を厳しく非難されます。自分たちはアブラハムの子孫で律法を守る民であるとする伝統主義を厳しく攻撃されたのです。

 最後の47節で、主イエスは、「神に属する者は、神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」と敵対者を断罪されています。「神に属する者」とは、神から出た者ということです。自分の存在を神によって根拠づける者のことです。そのような者でなければ、神の言葉は聞けないというのです。自分の立派な行いや、血統によって主張している者のことではありません。自分の存在を神によって根拠づける者のことです。
 
 そのような者でなければ、神の言葉は聞けないのです。自分の立派な行いや、血統によって主張している者のことではありません。自分の存在を律法主義や伝統主義によって根拠づける者のことではなくて、ただ、神のもとから来られた、神の独り子を信じ、受け入れ、神の言葉に留まる者こそ、「神に属する者」なのです。

 ヨハネ福音書の1章12節に、「しかし、言葉は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

 ヨハネの教会はユダヤ教の律法主義や伝統主義から決別し、まことの「アブラハムの業」である。神の言葉を聞く信仰に生きる教会へと生まれ変わったのです。神の言葉である主イエスを受け入れ、そのもとに留まることによって、私たちは、神の子として新たに生まれるのです。そして、「新しく生まれた者」こそ、「神に属する者」なのです。