【光の子らよりも賢い】
 ルカによる福音書16章1~8節


 今日の箇所はイエスの譬えの中でも難解で、戸惑う箇所である。なぜ、主人は不正な管理人(番頭)の抜け目なさをほめたのであろうか。普通に考えればこの管理人には、誉められる要素は見当たらない。けれども負債を負う人たちにとっては有り難い存在である。

 最初の人は油百バトス負債がある。一バトスが23リットルだと計算すれば百倍の2300リットルの負債、それを半分にする。次の人は小麦百コロスの負債、それを八十コロスにする。これらの負債は天文学的な数字であると考えられる。ある人の説では、証文で書き換えさせた額は利子ではないか、高利の利子をチャラにした。棒引きにしたのではないのか。その根拠として申命記23章20~21節にある「同胞には利子を付けて貸してはならない。」をあげている。

 すると書き換えさせたのは、借り主に借りた元金であり、本来は書き換えさせた証文で誰も損をしない(その利子は主人から管理人に任せられていた)、と考えることも出来るのだが、ここではそのようには書かれてはいない。イエスはこの譬えを弟子たちに語られた。15章の「失われた譬え」が、ファリサイ派、律法学者たちに語られたのに対して、イエスは弟子たちにこの譬えを語られている。(弟子、ファリサイ派、律法学者、民衆がそこにいた。同心円的な絵を描くこともできるのだが)

 聖書では、告げ口によって、管理人が不正をしていることが明らかとなる。そのため、管理人は先ほどの証文の書き換えを思いつく。そして、独白をする。ルカでは他に12章17~19節、15章17~19節、18章4~5節にもある。15章では父親に生前贈与を申し出た弟息子がどん底状態で発した言葉がそれである。管理人はその時、即座にヤバいと思ったのだ。莫大な借金をしている人たちを味方に付けて生き延びようとした。切羽詰まった管理人がなりふり構わず、生き延びる手段として、証文を書き換えさせた。その行為は危機回避であった。

 パウル・ティリヒと言う神学者がいた。彼はカールバルトと同時代に生きた。戦中ドイツから亡命した神学者である。学問的には総合プロフェッサーの称号を得ていたが、評伝などで、そのほめられないスキャンダラスな私生活が明らかにされた。彼のことを「多く赦された者」の神学者として捉え、彼を評した本がある。彼の神学を「多く赦された者の神学、そしてその神学は現代人にとっての「救済」の思想であるという。8節「光の子とは」イエスに従う人をさしている。そしてそれはクリスチャンを指している。光の子(宗教者)たちよりも賢いとは、良い感性を持っている人。と本田哲郎神父は捉え訳している。

 わたしはその時ある聖書の箇所を思い起こした。マタイ福音書10章16節である。「蛇のように感性するどく、鳩のように率直に行動しなさい。」(本田哲郎訳)

 危機回避と言うことから、この箇所を自分の救いを求めたティリヒの神学。すなわち救済のメッセージ、現代の救済ものがたりとして、この譬えは読める。一方、ブラジルの「キリスト教基礎共同体」は、「土地は神のものだ。大地主のものではない。」と云う聖書の言葉で、不法占拠をして土地を取得する権利を得るための手助けをしている。大地主、資本家にとっては「不正」そのものだ。しかしたとえ不正であっても、そうしなくては生きられない.状況下におかれている人たちにとっては、そのような手段で生き延びることは赦されないのか、とブラジルで宣教活動をしているフランシスコ会の佐々木哲夫神父は問うていた。私たちはこの難解な譬えをどこにスポットを当てるかで、そのメッセージが違って響いてくる。あの管理人は何のためにこのような行為にでたのであろうか。そのことを私たちは考え、これが弟子たちに向けられたメッセージであることを知らねばならない。