【主の山にのぼろう】
 賛美礼拝メッセージ
                詩編24編                   

 神殿は聖なる場所です。ここで語られる「山」は神さまがお造りになられた「山」ではありません。日本でも山岳信仰があり、信仰の対象として富士山に登る人もいます。神さまは聖なる場所におられる。モーセはホレブ山で召命があたえられ、民に授けられた「十戒」はシナイ山でした。

 ダビデ王はエルサレムを聖なる場所とします。そしてそこにはダビデ王の息子ソロモンによって建てられた神殿が焼き払われるまで(列王記下25・9)ありました。

 神殿で礼拝をささげることは特別なことです。巡礼者(山詣者)は祭司から資格を問われます。資格がないとみなされた人は神殿に入ることは出来ません。人々は神殿に入るためにエルサレムにやって来ます。祭司たちは資格がある者を神殿に入ることをゆるします。そして賛美が行われ、この世界は混沌の状態から神さまによって秩序ある世界となりました。(創世記1章 天地創造 混沌からの創造)

 主の山にのぼる(神殿に入城)資格のある者は「潔白な手と清い心を持つ人」「むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人」です。そのことは日々神さまを信頼し、神さまの恵みをどんなときでも感謝し、律法(神の言葉として)を恵みとして受け取り、神さまの御心に生きる人です。そのような歩みをした者は主の神殿に入ることが出来ます。そして人々は主を賛美するのです。預言者は、そのような神殿がソロモン死後、南北分裂した王国が偶像崇拝の場となってしまったことを「強盗の巣窟」(エレミヤ書7・11、マルコ11・17でイエスの言葉として引用)と厳しく糾弾します。

 アッシジのフランチェスコは「被造物の賛歌」を謳っています。フランチェスコは自然を愛し、イエス様の弟子として小鳥にも神さまの恵みを語った人です。

 困っている人、苦しんでいる人、病気の人の友となった人でした。この賛歌はフランチェスコが死ぬ2年前に作られました。神さまに対するすばらしい賛美で綴られています。800年前に作られたこの賛美は決して古びた賛美ではないことがわかります。フランチェスコの平和の祈り同様、私たちはこの賛歌を心にとめたいと思います。

 来週は平和聖日です。みんなで神さまに平和をお祈りしましょう。シリアでは空爆によって子どもや老人が傷つき、いのちを失っています。テロの犠牲者はフランス、バングラデシュ、イラクの人たちだけではありません。テロを抑止するという大義名分で空爆が行われ、その空爆で犠牲となっているシリアの人々もまたテロの犠牲者です。

 ヨーロッパには、多くの難民がいのちを守るために押し寄せています。そしてその「難民」を受け入れることは段々と難しくなってきています。

 私たちはここに主を賛美するために集められました。讃美歌を通し、お祈りを通し、み言葉をきくことで主を賛美しています。主を讃美する者は神さまに喜ばれる日々の歩みをする人たちです。自分の「安心立命」しか考えない人は主を賛美することが出来るのでしょうか。貧困、格差が益々世界を覆っています。弱い人たちは差別され、抑圧され、人権(「存在」)を踏みにじられています。このような世界であっても、失望することはあっても絶望することなく、私たちは主を讃美する者として歩みましょう。