【父と子】兄と弟の物語 part1
ルカによる福音書15章25~32節
                        
 山浦玄嗣さんはこのように意訳している。「兄はひどくへそを曲げ、どうしても家に入ろうとしなかった。」この兄の態度を同情こそすれ、非難できるのだろうか。父親が下男たちに命じ、信頼のしるしとして指輪をはめてやり、奴隷ではない、,僕ではない証拠に履物を履かせる。そればかりか大宴会を行うように下男に命令する。この態度を兄が受け入れられなくて当然ではなかろうか。父はそのような兄の態度に対してこのようになだめる「子よ、お前はいつもわたしといっしょにいる。わたしのものは全部お前のものだ。」当時の法に従えば兄は弟の2倍の財産を相続する。父は兄に対して不利益をもたらしたわけではない。けれども感情的に考えれば、自堕落な生活をした弟を許せない兄は理解出来る。

 このイエスの譬え話は非常に有名で、多くの信仰の先人(教父)たちはこの物語を読んできた。そして寓話的に捉えた。父=神、兄息子=ユダヤ人、弟息子=異邦人クリスチャン、財産の分け前=神認識、弟の雇い人=悪魔、父が与えた上着=アダムの堕罪で失われた身分、指輪=洗礼のしるし、祝宴=主の晩餐。ここで私たちは問われている。これは誰に向けて語られているのだろうか。そのことを私たちは1~2節で知ることが出来る。ファリサイ派・律法学者はイエスから厳しく、偽善者と非難されるが、当時は極めて常識的な集団であり、人々から後ろ指を指されないような生活を自分に課していた。そしてこの兄息子こそ、今日の教会ではないのかが、問われている。私たちは主の恵みに生かされている。   

 釈 撤宗という僧侶(浄土真宗本願寺派 如来寺住職)がいる。彼には『宗教は人を救えるか』というセンセーショナルな題名の本がある。一昨日もう一度NHKの「こころの時代」で本田哲郎さんが出演している番組をみた。出来れば修養会などの機会にみんなで見て感想を分かち合い、これからの教会の在り方のヒントになればと思う。彼はフランシスコ会の管区長として釜ヶ﨑を訪れる。彼はある計算をして夜回りに出かけるのだが…そこで眠っている野宿者に向かって「毛布いりませんか。」野宿していた彼は本田哲郎さんに向かって、兄ちゃん、すまんなぁ、おおきに…」その時、彼は「良い子ちゃん症候群」から解放される。任期を終えた彼は「釜ヶ﨑」で働くことを決心し、さまざまな人と出会う中で、共に生きるとはどのようなことなのか、聖書を読み、聖書に生きるとはどのようなことなのかを教えられ、聖書の翻訳をしている。イエスは炊き出しを配る側ではなく、炊き出しの列に並ぶものであるという真理を見いだす。讃美歌21・563番「ここにわたしがいます」を作詞したブライアン・レインも同様の詩を書いている。救われるためには、何をしなくてはならないのか、ファリサイ派や律法学者たちは律法を遵守した。すなわち模範的宗教生活を送っていた。しかし、足りないことがあった。それは自己の救いに終始し、律法を守れない弱者に対して、その人の立場で考えることが出来ず、そして非難、排除したのだ。世界はどこに向かうのか、教会はどこに向かうのか。自己の安心立命に終始する限り私たちは「兄」息子なのである。高価な恵みに歩むものとして、私たちも父親の「霊性」を身につけたい。