【父と子】 二人の息子の物語part1
 ルカによる福音書15章11-24節 

 旧約続編の「シラ書」33章19~24節と「申命記」21章15~21節には、生前贈与は認めない。長子は二倍の財産を相続する。また放蕩の息子には相続する権利はなく、その子は石打の刑に処せられる。と記されている。するとここに登場する父親は「母性」を持った父親ということになる。弟息子は「わたしが頂く分になっている財産の分け前を下さい。」と生前贈与を申し出る。すると父親は弟息子が相続する分の生活費を分ける。財産は不動産とそれ以外の財産と考えると、全財産を分けたというのではなく、家財道具を売って分けた。しかし彼にしてみれば今まで手にしたことのないような高額を手にする。その結果、彼は父親の家を旅立ち、欲望の赴くままの生活に明け暮れる。「したいほうだいに生きて、散在した。」(本田訳) 「ザブザブと湯水のように銭を使った。」(山浦訳)その結果、弟息子の父親から分け与えられた財産は、露と消えた。弟は仕事にあぶれ、「豚飼い」をすることになる。豚は汚れた動物で、ユダヤ社会においては食物とはしなかった。豚を食べるのは「異邦人」に限られていた。けれどもその仕事をしなくては飢え死にしてしまう。腹が減って、腹が減って仕方がない。そのため、彼は豚のえさのいなご豆で腹を満たしたいと考える。ある訳では「豚すらもそのえさをくれなかった。」(田川訳)。実の部分は人間が食し、その角さやの部分は豚が食べた。その豚のえさすら、彼にはおこぼれがなかった。どん底の、どん底の生活を余儀なくされる。そこで彼は決心する「父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても父に対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』」私たちはこの息子の言葉をどのように受けとめるのだろう。本心に立ち返った? 回心した? 心を入れかえた? 。

 ナウエンはそのようには考えていない。「私にとって意外だったのは、このわがままな息子が、どちらかといえば利己的な動機から父のもとへ帰ったことである。彼はこう独り言を言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人、有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行こう』。親に対する彼の愛が新たにされて帰ったのではない。ただ、単に生き延びようとして帰ったのである。自分の選んだ道は死に至る道だと気づいたのだ。父のもとに帰ったのは、生きるためにやむを得ないことだった。彼は罪を犯したことを認めたが、この認識も、死の淵に追いやられて初めてできたに過ぎない。」 

 利己的な理由で、生き延びるために… 身勝手な息子、自己中の息子、そのような息子に対して、父親は大いに喜び「急いでいちばん良い服を持ってきて、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったからだ。そして祝宴を始めた。」利己的、自己中の息子を父親は受け入れた。これは父と子との物語だ。そして譬えである。羊飼いの主人はいなくなった一匹の存在をどれほどに感じていたのか、99匹を荒れ野に残して、一匹の迷子の羊を懸命に探す羊飼いの行動は理解出来ないはずである。大金持ちにとってはたいした額ではない一枚の銀貨、必死に探すのは「貧しい女性」である。その人に価値があるから、その人を大切にするのではない。掛け替えのない息子だから理屈抜きで、大切にする。このことを心にとめ、「主の食卓」にあずかろう。