【父と子】 二人の息子の物語part2
ルカによる福音書15章11~24節

 先週も紹介したが、ヘンリ・ナウエンは次のようにこの物語を読んでいる。「このわがままな息子が、どちらかといえば利己的な動機から父のもとへ帰ったことである。彼はこう独り言を言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人、有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行こう』。親に対する彼の愛が新たにされて帰ったのではない。ただ、単に生き延びようとして帰ったのである。自分の選んだ道は死に至る道だと気づいたのだ。父のもとに帰ったのは、生きるためにやむを得ないことだった。彼は罪を犯したことを認めたが、この認識も、死の淵に追いやられて初めてできたに過ぎない。」この言葉を読んだ時、旧約聖書のヤコブのことが思い起こされた。パウロは神の選びとして「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」とこの人物について書く。けれどもどう見てもヤコブはエサウよりもすぐれた人物だとはわたしには思えない。(創世記25章~36章ヤコブとエサウの物語)

 ヤコブ(かかとを握る者)とエサウ(人)は双子であった。兄の名はエサウ、弟の名はヤコブ。エサウは父イサクにヤコブは母リベカに愛された。成長したヤコブは最初に兄から長子の特権を奪う。その後、目の見えなくなった父イサクから母リベカと共謀して、祝福(財産の相続権)を奪う。いずれもエサウは弟ヤコブに騙され、長子の特権も祝福も奪われてしまう。怒ったエサウは弟ヤコブを亡き者としようとする。それを聞いた母リベカはヤコブを伯父ラバンの所に避難させる。旅立ったヤコブはベエル・シェバを立ってハランに向かう。その時、彼は夢を見る。その夢は創世記28章13~22節、そして讃美歌21・435番の歌詞に語られている。夢を見たヤコブはそれからラバンの家に着く。そしてヤコブよりも狡猾なラバンのもとで艱難辛苦を味わう。その後、兄エサウとの再会の前に再び彼は、ある体験をする。それがいわゆるペヌエルでの格闘である。(創世記32章23~33節)ヤコブは、兄から長子の特権も祝福(財産)も奪いとるほどの狡猾な人物である。けれど、夢とペヌエルの格闘体験を通して族長となり、やがてヤコブからイスラエルへと名を変える。ここに登場する弟息子はエサウのような人物、それともヤコブのような人物…。兄から長子の特権と祝福を奪い、回心してエサウに赦しを乞うヤコブとは違い、回心する前に父の所に帰ってきたとルカの福音書をナウエンは読んでいる。

 私たちは騙したヤコブよりもエサウに好感を持つのではなかろうか。この2ヶ月スッタモンダの末に「辞任」を余儀なくされた都知事をニューヨークタイムズは「セコイ」と評した。すぐれた人物は清廉潔白で、リーダーシップがある人。確かにそうであるに違いない。尊敬されなければ大人物とはいえない。しかし神の眼はどうであろうか。狡猾なヤコブを愛し、エサウを憎むのである。これはいったい全体どのようなことを意味するのか。

 『寅さんとイエス』という本をカトリックの神父で典礼学者の米田彰男さんは書いている。フーテンの寅さんをこよなく愛し、寅さんの人間性に深く共感し、彼はイエスとはどのようなお方なのかを書いている。そのなかで「放蕩息子」と「法華経」の「長者窮子」の譬え話を比較している。乞食となった息子をわが家に受け入れ、下男として接し、彼が回心して真人間になるまで、身分を明かさず「待つ」これが長者窮子である。それにたいしてルカ福音書はありのままの息子をそのまま受け入れ、その子を息子として受けとめるのである。