【嘆きは躍りに変わる】
詩編30編12節、Ⅱコリント12章9節 

 人生の中には必ず試練が訪れる。試練、苦難にあわない人生はあり得ない。病気の時、愛する者を失った時、私たちは悲嘆にくれる。また物事が上手くいかず、他人に誤解され、攻められる時、そして人生のトンネルに迷い込んだ時、懸命にもがき苦しむ。けれどもその術を見いだすことは容易ではない。

 パウロはキリスト(復活のキリストに出会う)を知る前は、義憤に駆られて完膚なきまでに「この道の者を迫害、弾圧」した。しかし、復活のキリストに出会い(使徒言行録9章)、「この道を推進する者となる」その結果、彼はエリートコースの道とは逆方向の道を歩むことになる。彼はそのことを回顧してキリストに出会った喜びについて率直に語っている。(フィリピ信徒への手紙3章5~8節)彼は様々な困難を経験する。(Ⅱコリント11章11~29節)その中で、最も苦しい経験が今読んだⅡコリント12章9節の言葉である。三度とは回数と言うよりも必死に死に物狂いになって祈ったと言うことである。その病がどのような病であったのか、近年諸説ある(脳器質障害、眼病、身体的な障害などなど)がはっきりしたことはわからないが、伝道者であった彼にとってこの病は致命傷であったに違いない。この病さえなければもっと、もっと主の働きに参与できるのにどうして、自分はこんな病にかかり、中断を余儀なくされるのか。そのようなパウロに対して、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される。」と主は言われる。

 アメリカのスポーツジャーナリストのミッチ・アルボムは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)に侵された恩師モリー・シュワルツ教授の自宅に赴き、そこでマンツーマンで「最期の授業」を受ける。その「最後の授業」はノンフィクション小説『モリー先生の火曜日』として日本語でも出版されている。大リーガーのルー・ゲーリックはこの難病に罹り生涯を終える。恩師がゲーリックと同じ病に罹り、苦しむ姿は見たくはなかったはずだ。モリー先生のからだが日に日に不自由となり、人の世話にならねばすべての日常生活を送ることが出来なくなる。自分の体が自分の体でなくなる。そのような境遇の中で、彼は最後の授業を行う。「生きるとは…愛するとは…人生とは…」私たちは困難を避けることは出来ない。逃れることも出来ない。それが人生である。

 ここでの詩編の作者は、重い病に苦しんでいる。そのような中で、彼は見いだす。「あなたはわたしの嘆きを躍り(ダンス)に変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。」嘆きを躍りに変えてくださる主は、苦しみという人生のトンネルで、もがくその人といっしょにいて踊ってくださる。粗布とは、頭陀袋であるが、悲しみの時にまとう衣を指す。悲しみの淵にあるとき、絶望の淵でもがき苦しむとき、その現実をありのままに受け入れ、祈る時、主は共にいていっしょにダンスを踊ってくださる。これが私たちを支え、導く。イエスは「山上の説教」の最初の八福の教えの中で言われる。「悲しむ人々は、幸いである、その人は慰められる。」別の訳で読むと「死別の哀しみにある人は、神からの力がある。」(本田哲郎訳)「野辺の送りに泣く人は幸いだ。その人はやさしく慰めていただける」(山浦玄嗣氏)と訳されている。

 今日は賛美礼拝である。共に主を賛美し、どんなときにでも私たちの傍らにおられ、いっしょにダンスを踊って下さる主に賛美の祈りを献げよう。