【常識を覆す視点】
ルカ14章7~14節

 先週わたしたちは主の復活、イースターの喜びを共にし、礼拝を献げた。ペトロだけが彼女たちの二人(天使)が告げた伝言を受けとめ、埋葬された墓に赴くと、「亜麻布しかなかった」ことを目撃する。イエスの弟子たちは復活のイエスに出会い、聖霊体験をするまでは上昇志向から解放されてはいなかった。マルコ10・35~45には、「栄光を受けたとき、あなたのひとりは右に、もうひとりは左に座らせて下さい。」とヤコブとヨハネが語っていることからも明白である。

イエスは安息日にファリサイ派の家に食事に招かれる。そこで事件が起こる。それは安息日の規定に背くことをイエスは行われた。そのことを念頭に入れるならば、ここで上席に座ろうとしているのが、誰であるのかがわかる。そしてそのような者はわたしたちの姿でもある。人に認められたい。劣等感の裏返しは自己顕示欲である。認知要求、承認要求とはそのような心理の時に起こる。ファリサイ派は人々から後ろ指を指されることがないように日々の生活を戒めていた。真面目な人である。しかしイエスはそのファリサイ派の中にある潜在意識を知っている。ここでわたしたちは上席に座る人のことを考えたい。箴言25章6~7節には「 王の前でうぬぼれるな。身分の高い人々の場に立とうとするな。高貴な人の前で下座に落とされるよりも/上座に着くようにと言われる方がよい。何ごとかを目にしても性急に争いの場に引き出そうとするな。そのため友人に嘲られることになったら/将来どうするつもりか。」という言葉を彼らは知っていた。宗教者は謙遜でなければならない。謙遜が身についていれば自ずと聖書に生きる行動をする。わたしたちは謙遜を身につけたいと願う。それは自分の弱さ、醜さを受け入れ、欠け目のある者であることを認め、神の言葉に生きる人となることだ。

当時の食事は長いすに横になり、肘をついて食事をしたといわれている。上席に座るということはその人がいかにすぐれた人であるのかを人々に見せるために行われた。(マルコ12・38~40)自分たちこそ、神の恵みにあずかるふさわしい者であると考えていた。そのような価値観はわたしたちの価値観でもある。それがクリスチャンの優越感である。ここでイエスは婚礼に招かれるのは誰かと問うている。

今日わたしは常識を覆すと言う宣教題をつけた。それはわたしたちの常識は上席に座る人は、身分の高い人(名誉のある人)と考えるかもしれない。しかしイエスが常に誰に目を向けておられるのかを知らねばならない。わたしたちは今から「主の食卓」の招きを受ける。式文で「ふさわしい」と言う言葉を聞くとき、それを道徳的な「ふさわしさ」とイメージするかもわからない。しかし1コリント11・33~34によれば主旨にそぐわない人とは自分だけ…と言う人である。そしてその人たちがコリント教会の中にいた。婚礼の時に上席に座る資格は名誉のある人である。と言うのがわたしたちの常識ではないだろうか。しかしイエスはそのようには語られてはおられない。ペトロはヨハネとヤコブのように誰が一番偉いのか、と言う考え方を持っていた。そしてイエスに従った弟子たちも皆、ヨハネとヤコブと五十歩百歩である。わたしたちはどうであるのか、そのことを心にとめ、マラナ・タを歌い、共に主の招きに応え、食卓に加わろう。