【招きに応えるには】
ルカによる福音書14章15~24節

 来日している前ウルグアイ大統領ホセ・アルベルト・ムヒカ氏のリオ会議のスピーチは世界中に大きな感動を持って受け入れられた。彼は言う「貧乏なひととは、少ししか物を持ってない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ。」大量消費社会に対する厳しい警告がそこにはある。アベノミクスで景気を底上げし、デフレから脱却しようと目論んでも、実際何が起きているのか。吉野家豚丼が復活、ユニクロは価格を値下げ。庶民の大半はアベノミクスの恩恵にはあずかってはいない。トリクルダウンの論理は今や、気泡に屈した。これがわたしたちの生活感覚である。

 ムヒカ前大統領はいう。国民の目線に立たなければよい指導者にはなれない。私も含めてわたしたちはあの「愚かな金持ち」(ルカによる福音書12章13~21節)の譬えのように大量消費社会の価値観に絡め取られている者には『豊作だ。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから何年も生きていけるだけの蓄えが出来たぞ。」すると愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。おまえが用意した物は、いったいだれの物になるのか。』と言われていることを知らねばならない。

 自分は上席に座るに値していると勘違いしている人に対して、イエスは譬えを話される。準備万端整えて主人は招待客を招く、招待客はあらかじめスケジュールに入れていると思い、僕に招待客を招くように命じる。するとせっかく招待されたのに、三人の招待客は言い訳をする。最初の人は畑を買ったので、見に行かねばならないので、申し訳ないが行けない。次の人は牛を二頭ずつ五組買ったので、それを試しに行きます。三人目の人は妻を迎えたので、行けなくなった。それぞれが言い訳をする。この言い訳を僕から聞いた主人は立腹して、急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人(肢体不自由)、目の見えない人、足の不自由な人をここにつれてきなさい。と命令している。最初に招待された人たちは畑を買い、牛を買い、妻を迎えることが出来る人(申命記20章6節、24章25節)、経済的にも余裕があり、安定した生活を送ることが出来る人、社会的にも地位があり、人々から一目おかれている人である。それとは正反対なのが、後から招待された人々だ。彼らは招待されてもお祝いの品物を持って行くことすら出来ない困窮者である。

 この譬えは「神の国」の譬えである。すなわち「神の支配」がはじまった時、はじまろうとしている時、神は誰を最初に招くのか、イエスは貧しい人、障がいを負う人たちを後回しにするような価値観しか持ち合わせていない人は「神の国」にふさわしくない。と言われる。イエスの譬えを理解するためには、わたしたちは屁理屈をつけて招待されているのに、断っているものであることを自覚することが大切である。「われわれは誰であるか。われわれは富める人間である。これが、われわれの場所についての最も正確でもっとも明白な規定である。」とゴルヴィツアーは語る。大宴会の招きに応えるためにわたしたちは、何をしなければならないのか、そのことを考えながら、それぞれが遣わされた場所で証言をたてる者として歩みたい。