【エルサレムへと進む道】
ルカによる福音書13章31~35節

 宗教学者の島薗 進氏と政治学者の中島岳志の対談(『愛国と信仰の構造 』-全体主義はよみがえるのか-) を読んでいる。日本におけるナショナリズムの起源を「現代史」を踏まえながらの対談は読み応えがある。その中で、華厳滝に飛び込んだ藤村 操に象徴される「煩懊青年」がなぜ、個人救済から社会救済へ、やがて北一輝に象徴される愛国主義、すなわち国家社会主義(全体主義)へと繋がったのか、主に仏教を通して解読している。

 時の権力者ヘロデは、狐といわれていた。ここに登場するヘロデ(マタイ福音書2章)は、ヘロデの息子のアンティパスである。彼のことはルカ福音書3章1節でこのように記されている。「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主」ヘロデはバプテスマのヨハネに対してこのように評価する。 20節「なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。」けれども狐と言われていた彼は、残忍な性格の持ち主であったことが慚首事件によって知ることができる。(マルコ6章・14~28節)

 あるカトリックの活動家の神父が、労働運動に携わりながら、「主の祈り」について書いている。エドワード・ブジョストフスキー神父のことを思い起こした。彼は出る杭は打たれるが、出すぎた杭は打たれないという。指紋押捺制度廃止運動や労働運動に携わる彼の行動原理は聖書と様々な人たちとの出会いからの学びに他ならない。

 バプテスマのヨハネは、ヘロデによって慚死された。彼はイエスがその再来と考えた。そしてイエスに無視されると、ビラトの手にイエスを引き渡す。(ルカ23章9~12節)

 なぜ、イエスにファリサイ派は耳打ちをしたのだろうか。ファリサイ派は、イエスの「神の国」運動を支持してはいない。ここに出てくるファリサイ派は例外なのだろうか。彼らの願いはこの場所から「出ていってほしい」である。そしてそこはヘロデアンティパスの領地であった。彼はガリラヤとペレアの領主であった。イエスはそれに対して、「狐にこう言いなさい。」と言い、更に自分はエルサレムに向かう。その旅で今日も明日も悪霊を追い出しいやしを行うと言われる。三日とは短期間を象徴している。

 イエスは、ここで「何度も集めようとしたが」応じなかった。(13章34節)と言われる。それは「悔い改め」を意味する。「悔い改め」とは、神の視座でこの世を見ると言うことに他ならない。それはサクセスストーリーではない。イエスを信じるとは、イエスに従うことである。「悔い改めて、福音を信ぜよ」(マルコ1章15節)とは、生き方の方向転換を意味する。今、わたしたちはレント(四旬節)の時を過ごしている。27日のイースターまで、わたしたちはイエスに倣う者として、イエスの十字架の意味と意義を知らなくてはならない。現在のエルサレムとは、どこなのかルカが語る「エルサレム」が意味するものは何か、そのことをわたしたちは心にとめ、レントの時を過ごしていきたい。