【身内と他人】
ルカによる福音書14章1~6節

 未曾有の東日本大震災から5年が過ぎた。自然に抗う形で人工的に作られた高台に新たな都市を建設している様子が報道されていた。すでに限界集落化した村や町がある。国土強靱化政策は、東北ショックドクトリンに他ならない。わたしは3.11の日は「東京同宗連」と部落解放東京都連との交流・懇談会に出席した。懇談会の席で、出席していた寛永寺住職が、3.11の時に東京における帰宅困難者を受け入れることが出来なかったことを自戒の意を込めて話された。なぜ、それが出来なかったのか、その理由の一つに檀家制度があるという。わたしはその話を聞きながら、高橋卓志さんの『寺よ変われ』で語られていることを思い起こした。開かれた場を提供すると言うことは口で言うことはたやすいが、いざ実行するとなれば、様々な壁にぶち当たる。そしてその壁を突き破り、乗り越えなければそれは単なる絵に書いた餅に過ぎない。

 ここではイエスをファリサイ派の指導者の家で食事の時に行われたいやしが問題とされている。13章では、18年間腰がくの字に曲がった女性の痛みに共感したイエスのいやしの物語が記されている。共通するのが「安息日」である。この日、ユダヤ教を信奉する人々は神との繋がりを感謝し、からだを休める。労働は禁じられていた。そのような中で、安息日とは何かをイエスは問い直している。当時、安息日にはしてはならない39ヶ条の禁止条項があり、その条項を守るためにさらに234の行為が禁止されていた。明らかに安息日に急性期以外病人に医療行為を行うことは律法違反に他ならなかった。イエスは自分が違反していることをご承知のはずである。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから人の子も安息日の主でもある。」(マルコ2章27節)同じ2章17節には「医者を必要としているのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われている。ファリサイ派の人たちは真面目で誠実な人であった。けれども、彼らには大きな落とし穴があった。それが原理主義である。イエスは、そこで苦しんでいる人を無視して己の「安心立命」のみに終始する人を許せなかったに違いない。なぜ、あなたは「なになにしてはならない」と言う論理を正当化出来るのか、と鋭く問うている。

 今、わたしたちはレントの時を過ごしている。来週の主日は棕櫚の主日である。イエスは子ロバに乗ってエルサレムに入城される。 民衆はイエスを大歓迎する。(マルコ11章8~11節)しかし、イエスは週の金曜日には冤罪によって十字架に架けられ、殺される。 今日わたしは「身内と他人」と言う宣教題をつけた。看板の文言を見て、戸惑われた人たちもいるかも分からない。その宣教題を付けたのは5節の言葉があったからである。他者に対するまなざしと身内に対するまなざしは明らかに違う。もしも自分の息子であったならば…と言う言葉の背後には「身内と他人」という考え方がある。相手の身になって考える。自分の痛み、苦しみとして想像力をめぐらして共感する。それがイエスに倣うことに他ならない。棕櫚の主日の前のこの主日がイエスの十字架を深く受け止め、今神さまはわたしたちに何を求めておられるのかを知りたいと思う。