腹を立てる者と神を讃美する者
ルカによる福音書13章10~17節


 イエスの時代、病気は罰(バチ)として考えられた。聖書に出てくる病人は、すべて世間から後ろ指を指され、差別され、肩身の狭い思いをして、生きていることが苦痛であった。イエスはそのような人々と命懸けで関わり、その人の傍らに立ち、共に痛みを負い、真剣に関わられた結果、その人の病は癒される。しかし、21世紀に生きる私たちにとって、イエスの奇跡、癒しを何の疑問も持たずに、受けいれることは難しい。なまじ中途半端な知識があればあるほど難しい。ここに「18年間も病(弱い人)の霊に取り憑かれている女がいた。その腰はくの字に曲がっていた。ある聖書では、「18年間弱さの霊に取り憑かれた女性がいた。」 と訳している。彼女は、病ゆえに障がいを負う者となる。当時病気が治らず、障がい者になると言うことは、夢も希望もない長いトンネルに入り、光すら見いだすことが出来ない状態を意味する。そのような女性に向かって、イエスは「婦人よ病気は治った」と宣言する。そしてその女性の上に手を置かれる。山浦氏の「イエスの言葉」・「イチジクの木の下」を読むと、医師ならではの翻訳がなされている。彼はそこで新約聖書の原語の言葉をベースにして「治療」と「治癒」についての違いを語る。「われわれ医師は病人を治療します。生活習慣を改善指導し、薬を与え、手術をし、病気が平癒することに手をつくします。これが治療です。しかし、いくら治療しても治癒しない場合があります。」と言い、このように意訳する。「『有り難や、有り難や』と狂喜乱舞、果ては地に伏して涙にむせび、神さまを拝み申した。」

 しかし、安息日をないがしろにする行為を、会堂長は痛烈に批判する。苦しむ人がいたら、居ても立ってもいられずに行動を起こす人こそが、イエスに他ならない。今日、わたしが宣教題を「腹を立てる者と讃美する者」とした意味がおわかりだろうか。18年間讃美することが出来ない者がいた。しかしその女性は讃美する者へと変えられた。そしてその光景を見ていた者も喜んだ。しかし、喜ぶことが出来なかった人がいた。会堂長である。きっと聖書には書いてはいないが、腹を立ててイエスにかみついたのだろう。しかし、イエスは「安息日」であっても例外があることを指摘している。 私はここに教会のすがたを見る。神経難病に苦しむ女性が「困っている人」と言う本を出している。しかし、社会はその人たちに「困った人」と言うレッテルを貼る。障がいを負う者がいる。生まれつき障がいを負う者、事故や病気で障がいを負ってしまった人、そのような障がい者に対してやさしい社会は、分かち合うことの出来る社会である。持てる者が、持たない者に差し出す。そして共に支え合う社会、これこそが、「神の国」のビジョンに他ならない。イザヤ書35章1~6節、29章18~19節には、イエスの神の国のビジョンが語られている。私たちは神を讃美する者である。たとえ自分の病が癒えなくとも、神を讃美する者として歩みたい。治療=治癒ではない。生かされていることに感謝し、共に祈っている人がいることに感謝し、神の国のビジョンを実践する者として、これからの「主の食卓」がそのような道の備えとなり、わたしたちが信仰の応答として「主の食卓」にあずかり、どんな時も主を讃美する者として歩みたい。