神の国のたとえ part1
ルカによる福音書13章18~21節


 先週の水曜日から、「灰の水曜日」に入った。今年の2.11東京集会は、「特定秘密保護法に反対する牧師会」共同代表の朝岡 勝牧師であった。彼は、現政権が目論んでいることをキリスト者として、今をどのように生きるのかを改憲論を踏まえて語られた。

 朝日新聞の記者であった。伊藤千尋氏は、近著『今こそ問われる市民意識』で、現政権の「積極的平和主義」をこのように説明している。「首相がこの構想を打ち上げたのは訪問先のアメリカだった。日本政府が言う「積極的平和主義」とは、先制攻撃の際に使われる軍事用語である。すなわち「やられる前にやれ」と考える発想から生まれた言葉である。少なくとも聞いている米国側は、軍事と関連して受け取っている。平和を語るときに使うべき用語ではない。それを知らないで使ったとしたら、政治家としてそしりを免れない。」と書いている。ノルウェーの政治学者ヨハン・ガルトゥングは、「積極的平和」とは、貧困や社会的な格差、搾取や差別など、争いを招く要素をなくした状態と定義している。それは聖書によれば、シャロームということになる。弱い者が蔑ろにされ、後回しにされる社会は平和とはとうてい言えない。後回しにされる人たち、蔑ろにされる人たちに目を向けるイエスがおられる。そしてわたしたちもそのイエスに倣い、イエスを「主」と告白した者として、その道を歩むことが福音に生きることである。

 今日の箇所には、からし種とパン種の譬えが書かれている。イエスがこの譬えを話されたことは、マタイ、マルコにも記されているが、ルカだけが「説教集」(種まきのたとえ集)としてではなく、からし種とパン種の譬えとして単独に書いている。「神の国」はからし種に似ている。そしてこの「神の国」は終末を生きる途上にある教会を象徴している。 最近、鈴木文治著『インクルーシブ神学の道』-開かれた教会のために-を読んだ。長年教師として障がい児教育に携わった経験を元に、互いに相手を受けいれ、支え合って生きる共生の理念の「インクルーシブ」の神学を提唱する。「日本のキリスト教が全人口の1%に留まっている宣教の失敗は、家族伝道の失敗である。」と言う主張に対して、長年ホームレスとともに歩んで来た経験(桜本教会)を通して、この世で苦しんで生きている人々と共に生きることを拒否してきたが故の失敗であり、民衆の宗教にならなかったからだ。すなわち教会は知らず知らずの内に、ウエルカムと口では言いながら、「小さくされた人たち」を後回しにしてきたからだと言っている。

 からし種は「小さい者たち」を象徴している。そのような存在を無意識的でも、後回しにする限り、種が蒔かれないのだから、灌木になることも、鳥が巣を作ることもない。教会の原点はそのような人たちを大切にすることからはじまる。そしてその道に生きる時、わたしたちはエゼキエル書17章22節にあるようにどのような「苦難」に会おうとも、苦難から解放される。そのような恵みに生かされるために、わたしたちひとり一人が、すでに主がまかれているからし種を大切にし、そこからはじまる神のドラマを信じ、今、教会が置かれている現実の中に主が働かれることを信じて歩みたい。賀川ミッションを土台に据えた教会として歩むために。