【使命に生きる】
士師記13・2~14、マタイ福音書11・2~19

 月報にも書いたが、イギリスではヤングホームレスが社会問題となっている。その解決策が模索されているが、打開策は見いだされてはいない。NHKで爆笑問題の司会で三回にわたって「資本主義」について取り上げられ、三回目のテーマは「格差」であった。

 トリクルダウンという言葉がある。シャンパンタワーのグラスにシャンパンを注ぐと溢れたシャンパンはやがてしたたり落ちて一番下のグラスにもわずかであるが、シャンパンが注がれるように、富裕層の富が蓄積されることによって、やがてその富が貧困層の人々にも注ぐ。しかし現実はそうではない。33億人と63人という比較がある。貧困層33億人と富裕層63人の総資産が同じであるという。富裕層は実際には自分の資産を少しでも蓄える。(ルカ12・13~21)分かち合いという言葉は、現代は死語となっている。このような現実の中にわたしたちは生きている。

 士師記13・2以下にはサムソンという人物のことが語られている。そしてマタイ福音書11章にはバプテスマのヨハネが弟子をイエスに遣わして「来たるべき方は…」とたずねたことが記されている。バプテスマのヨハネはイエスの「先駆者」として描かれ、その誕生は不思議な神の導きである事が記されている。(ルカ1・5以下)サムエル、サムソン、バプテスマのヨハネは皆「ナジル人」であり、生まれた時から神の御心に生きるものとして定められた。

 彼らは世俗の中にあっても神の御心を実行する。バプテスマのヨハネのことをイエスご自身「洗礼者ヨハネよりも偉大な者は現れなかった」(マタイ11・11)と記している。今日私は「使命に生きる」という題をつけた。使命に生きることは容易いことではない。時流に抗して生きることを意味しているのだから、富める者に対して、指導者に対して神の正義を語るには勇気がいる。バプテスマのヨハネは権力者、暴君ヘロデに対して容赦ない批判をする。(マルコ6・18)その結果、ヘロデは彼を捕らえ、死刑にしてしまう。(マルコ6・27)バプテスマのヨハネはヘロデにとっては出る杭であり、放置出来ない存在であった。彼が神の正義と公平に生きなければ命を奪われることはなかった。しかし彼は使命に生きた。

 わたしたちは今、アドベントの時を過ごしている。クリスマスを迎えると言うことは、イエスの先駆者であるバプテスマのヨハネの生き様を理解し、その意志を引き嗣いだイエスの生涯が語られねばならない。イエスはヨハネの弟子に対して「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人々は福音を告げ知らされている。」(マタイ11・5)と語る。

 イエスの誕生を祝うと言うことは、新しい世界の到来を待ち望むことに他ならない。その世界とはのけ者にされている人、人々が無視している人、差別し、疎外されている人たちが生きることができる世界である。すなわち分かち合うことのできる「共生社会」に他ならない。能力のある人だけが成功することを是とするのではなく、ひとりひとりが掛け替えのない存在として認められる社会である。それは独り占めすることをゆるさない社会である。

 アドベントのこの時、神が一人一人にイエスをこの世に遣わされた意味を深く心にとめ、主のご降誕を心から待ち望み、3本目のロウソクを私たちの心に灯そう。そのためにはわたしたちは自分の生き方を吟味し、先駆者ヨハネの生き方を心に留め、福音書の語るイエスの誕生から十字架の死に至る道を問わねばならない。