【メメント・モリ】 汝死ぬことを覚えよ
コヘレトの言葉3章 1~8節、Ⅰテサロニケ4章 13~14節
  永眠者記念礼拝メッセージ     

 宗教改革者M・ルターの時代は死後の生命についての信仰が強かった。平均寿命が30歳前後で乳幼児の死亡率は高く、成人に達しても50歳前後で多くの人たちがこの世の旅を終えたと言われている。伝染病、特にペストが猛威を振るった時代でもあった。人は神の前に「良い死」を迎えるために何をしなくてはならないのか、死後の世界を生きるためには、このことはルターが生きた時代の共通の課題となっていた。

 評論家の立花 隆さんが「死はこわくない」という本を上梓しているが、この本をめぐって科学ジャーナリストの緑 愼也さんとの対談を読んだ。彼の両親は無教会派のクリスチャンである。75歳となり、がん・心臓手術を経験した彼がジャーナリストの眼で死について語っている。中世の修道士は、メメント・モリ(「死を忘れるな」)という言葉を日々心に刻み生活していたと言われている。M・ルターもそのような生活を送っていた。だからこそ、「良い死」を迎えることが大きなテーマとなった。わたしたちは21世紀を生きている。

 M・ルターが考えているように死を考えてはいない人たちが大勢いる。しかし死とは、肉体の終わりだけを意味することではない。それは愛する者との関係の喪失を意味する。悲嘆は愛する者を失った人たちが経験することである。ペットロスという言葉があるように人間だけではなく、愛するものと関わりを持つことが出来なくなるとき、わたしたちは大きなショックを受ける。聖書はそのようなわたしたちに永遠のいのちをメッセージとして語っている。永遠のいのちとは神さまがわたしたちに下さるプレゼントである。すなわちわたしたちは愛する者とやがて再会する。

 今、旧約聖書のコヘレトの言葉とⅠテサロニケ信徒への手紙を読んだ。すべてのことには時がある。わたしたちは神さまのみ手に導かれて、その時を生かされている。ここにはプラスとマイナスが語られている。そしてこれらの時はすべて神のみ手の中にある。Ⅰテサロニケ信徒の手紙は主が再び来られることをメッセージの中心に据えている。その中で「既に眠っている人たち」と言う言葉が出て来る。イエスの「来臨」が近いとパウロは確信し、人々にもそのようなメッセージを語った。イエスが「来臨」する前に死んだ者はどうなるのか、パウロが生きていた時代、同時に生きたプルタルコ、セネカは悲嘆の中にある者を癒すのは理性であると語っている。しかしパウロは悲しみを癒すものは理性ではない。と、ここで確信を持って語っている。それが「復活」という言葉である。復活という言葉は「起き上がる」という意味から生まれた。そしてそれは絶望から希望を意味する。

 今日は「聖徒の日」・「永眠者記念礼拝」としてこの礼拝が献げられている。お手元の「召天者名簿」を見て戴きたい。38名がこの教会から天に召されたことがわかる。また正面の十字架の横には32名の写真が飾られている。若くして召された人、闘病の末に召された人、突然に召された人、自らのいのちを絶つことを赦された人、文字通り天寿を全うした人、それぞれの死の物語がこの写真を通して語られている。

 わたしたちは死に向かって生きている。しかし死を意識しては生きてはいない。この時、天上にいる兄弟姉妹を心にとめ、わたしたちの死についても考えたい。わたしたちは死ぬべき存在である。メメント・モリ。死は終わりではない。再び愛する者たちとの再会を信じ、共に祈りを献げよう。