【もうすでに来ている】
ルカによる福音書17章20~21節
 障がい者週間         

 今日は障がい者週間としてこの礼拝が献げられている。「津久井やまゆり園」の事件から約4カ月が過ぎた。新聞、雑誌には今回の事件について様々な解釈がなされている。適者生存、自然淘汰という進化論的価値観にとらわれすぎると、私たちは創造の意味を見失う。生命の進化を生物学は説明してくれるが、その説明だけで私たちの存在が十分に示されているとは言えない。すべての被造物は神によって創られた。神はこれを見て「良し」とされ、祝福された。この価値観がわたしたち聖書に生きる者の価値観である。

 近年、社会福祉の分野で障がいの「個人モデル」「医療モデル」と「社会モデル」という考え方が提唱されている。「個人モデル」とは、障がいがある者が困難に直面するのは「その人に機能障がいがあるから」であり、問題の克服の責任はその人本人にあるとする考え方です。往々にして機能障がいを改善することが求めらている。それに対して「社会モデル」は、障がい(障壁)は社会にあり、「障がい者」とは社会の犠牲になっている人のことで、「その障がいを取り除く責任は社会にある」とする考え方である。そして「障がいがあるから不便」なのではなく、「障がいがある者と共に生きることを否定する社会が不便なのだ」と考える。

 糸賀一雄氏は「この子らに世の光を」ではなく「この子らを世の光に」という価値観こそが共に生きることであると語り、また聖書が教える「触れる」大切さということで、イエスの重荷を負う人たちへの関わり方を通して、わたしたちの在り方について語っていた。

 イエスは病気の人、社会から疎外され、差別されている人たち、神の国の資格(キップ)がないと言われている人たちに「神の国」を語られた。

 マルコによる福音書1章15節には「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言された。イエスに悪意を持ち、敵対するファリサイ派の人々が、「神の国はいつ来るのか」と尋ねた。同じルカ福音書11章20節には「神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と悪霊が悪霊を追い出している。ベルゼブル(悪霊の頭)という批判に対して答えられた時にも「来ている」と語っている。神の国とは神の支配、神の王国を意味している。神の支配はすでに行われている。神の支配は未だ来てはいない。イエスの到来こそが神の国を言い表している。という考え方がある。

 ここに出てくる「間にある」という言葉は、中、内とも訳される言葉である。わたしたちの間に、わたしたちの中に神の国はある。ということの解釈は難しい。ある人がこのように書いていた。

 神の支配は、この世の悲惨、矛盾、暗黒のただ中にあって、なお絶望せず信じて、その悪魔的支配と戦う人々の中にある。貧しく虐げられてなお、望みをすてない人々の間にある。手をこまねいて、神の到来の時期を問う傍観者的人間には感知できないものとして、「あなたがたのただ中に」ある。

 ファリサイ派はこのイエスの言葉をどのように受けとめたのか、差別されている人、谷間にいる人たちに目を注ぐことなく、観念的に問うだけでは「神の国」はわたしたちにはわからない。

 谷間の人たちはどこにいるのかを問うのではなく、谷間を見る。そして「小さくされた人々」と連帯する時、わたしたちはイエスの言葉に触れることができるのではなかろうか。

 障がい者が「世の光に」という価値観は谷間を見ることがなければ生まれない。
アメリカの大統領選挙は大方の予想に反して共和党のトランプ氏が次期大統領として選ばれた。多くのマイノリティーの人たちがこの選挙結果に絶望している。反知性主義とは知性を否定することではない。権力志向の人たちに対して、神の前にすべてのものは平等である。という価値観が根底にあることを森本あんり氏はわたしたちに示してくれた。

 教会はこの価値観を土台としてたてられている。わたしたちはイエスの言葉を解釈することがある。そしてその言葉に衝撃を受ける時、否定する時にひたすら自分に合う解釈を見いだそうとする。

 イエスのまなざしと感性を持つことなく、わたしたちは聖書に生きることはかなわない。神の国はわたしたちのただ中にある。そして神の国はもうすでに来ている。というイエスの言葉を素直に受けとめ、わたしたちに出来ることは何か、祈り求めねばならない。

 「もう来ている」と今日の宣教題をつけた。繰り返しになるが「谷間」を見てほしい。わたしたちが置き去りにしている人、置き去りにしてきた人たちのことを想像してほしい。