【ゆだねて生きる】
ルカによる福音書17章1~10節

 今日の礼拝は、神学校日、献身者奨励日として献げられている。伝道者になろうとする人のために祈り、神学校のために祈りを献げる日である。牧師の資質とはなんであろうか。聖書の知識、様々なキリスト教(神学)の知識、一般教養、いずれもあってこしたことはないが、本質的なことではない。神の召命に生き、自分の痛みのように他者の傷みを感じる感性と聖書に生きる者としての確かな主に対する信頼である。

 イエスは4節で一日7回あなたに対して罪を犯しても、7回赦してやりなさいと言われている。この赦すという言葉に弟子たちは反応して、「わたくしどもの信仰を増し加えて下さい。」と言っている。マタイ、マルコにも同じような記事があるが状況設定が違っている。(マタイ17・20、21、マルコ11・23)それに対して、ここでは「山」ではなく「桑の木」である。

 桑の木はパレスチナに広く栽培されており、主としてその果実を飲み物とした。樹高は10~13メートルに達し、枝は40メートルにも広がり深く根をはるとされている。人間の力ではどうすることもできない。山にしても桑の木にしても動かすことは常識で考えれば不可能である。それに対して「からしだね」の種は小さい。イエスは言われる。からしだねの信仰があれば…と、弟子たちが問われているように、わたしたちにも問われている。弟子たちにイエスは「自分に罪を犯した者が悔い改めれば一日7回赦しなさい。」と言われた。これを聞いた弟子たちは戸惑った。そして「信仰を増して下さい」と懇願する。その時、イエスは「からしだね」の信仰があればと言われた。赦すことができない。これがわたしたちである。

 日弁連の「死刑制度廃止」(冤罪で死刑に処せられれば二度とその人のいのちは元には戻らない。)を願う集会で、瀬戸内寂聴さんがビデオ出演で「殺したがるばかどもと戦って」と言ったことが波紋を拡げている。国内では80%以上の人たちが「死刑」はやむを得ないと考えている。被害者遺族の感情は理解出来る。しかし、憎しみは憎しみしか生み出さない。その人を極刑にしても心は癒されない。そのことをノンフィクション作家の坂上 香さんが著書『癒しと和解への旅』で明らかにしてくれた。わたしたちは自分を傷つけた人を赦すことはできない。ましてや肉親のいのちを奪った者に対しては当然である。けれどもイエスは「悔い改めるならば、赦してやりなさい。」と言われる。

 信仰とは、神さまに対する信頼である。わたしたちは弱く、脆く、醜い存在である。すべてをゆだねきることはできない。イエスの弟子たちのようにわたしたちはイエスの言葉に戸惑う。主の祈りで「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとくわれらの罪を赦したまえ」と祈っても、自分を傷つけた人を赦すことは難しい。ちょうど桑の木が海に移動し根を下ろすことがあり得ないように不可能は不可能のままである。

 わたしたちは問われている。あなたはわたしを信じているのか。それであるならばわたしの言葉をないがしろにして、本音と建て前を使い分けダブルメッセージとすることはないだろう。主が共におられる。これをわたしたちの確信としたい。最後に不遇なこども時代を過ごし、母親にも捨てられた結果、24歳で死刑囚となった人を養子とした経験を綴った『死刑囚の母となって』(著 向井武子)の一文を紹介したい。「人間の裁きは究極の裁きであってはならない。自分自身も、誤りやすく罪を犯す可能性を秘めた人間である。また罪を犯した人を処刑によって解決しようとすることは共に生きる社会を放棄することである。」