【赦してやりなさい】
ルカによる福音書17章1~10節   

 「つまずかせる」という言葉は、マタイ・マルコにも出てくるが、ルカは先の福音書とは違い、「弟子たちに言われた」と書かれている。マタイではつまずかせるものは「世」である。(マタイ18・7)福音書の記者はこのようなイエスのメッセージを伝えている。ルカは1~10節で弟子の在り方を問うている。つまずきとは具体的には何を指しているのだろう。罪の誘い、横道にそれる。とも訳せるこの言葉は、罠をかけるという意味を持つ言葉でもある。相手を罠にかけてはならない。相手がその罠によって傷つくのであるから、そのようなことはしてはならない。けれどもイエスは、つまずきは避けられない。つまずきをもたらす者は不幸だ、と言い、さらにたたみかけるようにそのような者は首に挽き臼を懸けられて、海に投げ込まれる。と言われる。これを聞いた弟子たちは、衝撃を受けたに違いない。

 本田哲郎さんの対談集『福音の実り』が出版された。その中で経済学者の浜 矩子さんは、分配の大切さを語っている。富が一部の人に集中する結果、格差が膨張し、のっぴきならない状態となっていく。そのような中で、福音的な視点に立つとき、わたしたちはどのような行動をとるのかが語られていく。

 今の教会は、「助けて!」と言える「信仰共同体」・「礼拝共同体」なのだろうか。今、この教会は教会堂移設に向けて準備が行われている。その中でわたしは「堀切天隣館」の存在を知った。教会と社会奉仕は一体であった。そして社会奉仕は宗教の枠を越えて「助けて!」という人がいれば関わる実践運動であった。

 天隣館の在り方は教会論的には問題はあるが、その人が「助けて!」と言えばほっておけない。と言うのが、賀川が語る「実践的贖罪論」を生きることではなかろうか。イエスは「助けて!」と言う人たちに無条件で関わられ、その人のニーズに応えられた。つまずかせてはならない。このことは信仰の弱い人に対しての配慮として語られ、そのように読まれてきた。すなわち信仰の先輩たちは、教会生活に慣れていない人をつまずかせてはならない。小さい者を信仰の弱き者として解釈した。(Ⅰコリ8・13)教会に「助けて!」という人が救いを求めてくるとき、わたしたちはその人たちをつまずかせてはならないし、そのような人たちが共に神さまを礼拝する場所が教会であり、その人たちの「居場所」が教会である。わたしたちが首に挽き臼を懸けて、海にほうり込まれないために、わたしたちは日々の生活を整えなければならない。そのためにわたしたちは注意をしなくてはならない。

 わたしたちは主の祈りを唱える。「我らに罪をおかす者を、われらがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」(ルカ11・4、マタイ6・12)これはわたしたちに課せられた神さまからの命令である。 悔い改めるならば赦される。実際人間関係で人が人を赦すと言うことはたやすいことではない。けれども、聖書は何度でも赦しなさい。と語っている。7回とは無条件を意味する。マタイでは7の70倍とイエスは語られた。と記している。われらは赦された。これはわたしたちの「原体験」である。わたしたちは十字架の贖いによって罪が赦された。ルカは9章51節~19章27節まで「エルサレムの旅」について記している。この旅は、弟子たちに対する教育の場に他ならなかった。イエスに従うと言うことは「自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9・23)というイエスの言葉にわたしたちは生きている。

 しかしそれができないのが、わたしたちの現実の姿、教会の姿でもある。 そのようなわたしたちと主は共におられる。