【特別なことではない】
ルカによる福音書17章10~19節
   江東伝道所との合同礼拝メッセージ   

 イエスはこのように言われる。「命じられたことを、みな果たしたら、わたくしどもは取るに足らない僕です。」と言いなさい。ある人はこれを謙遜として説明するが、ある訳では「褒美をほしがる」と捉えている。ボランティアが報酬を求めないと言うことは「ありがとう」を期待しないことでもあると言われた活動家の言葉を思い起こした。

 今日私たちは江東伝道所と共に礼拝を献げている。礼拝後に江東伝道所の歩みを小森裕之牧師と教会員の方々から伺う。同じ賀川豊彦によって生まれた教会の歩みを通して、賀川ミッションについて学び会うことが出来ればと願っている。

 『本田哲郎対談集』で社会学者の宮台真司さんとの対談の中に「自発性」ではなく「内発性」という言葉が出てくる。そのテキストは「親切なサマリヤ人」(ルカによる福音書10章29~37節)である。損得勘定ではなく、はらわたが揺り動かされたその結果、傷ついた人の「隣人」となる。自分の財布からその傷の手当てと宿泊料を払う。しかも律法を知らぬ「サマリア人」としてかつては同胞であったのに、今では異邦人と同じように扱われ、差別されていた彼が律法に定められた人道的な行為に出る。それに対して追いはぎに襲われ、傷ついた人を見て見ぬふりをしたのは神殿につかえる祭司、レビ人であった。彼らにもそれぞれ言い分はあろうが、その傷ついた人に損得勘定抜きで関わったのはサマリア人であり、イエスは「あなたも行って、同じようにしなさい。」と言われている。このようにイエスから言われたのは誰か。それは「律法学者」に他ならない。人々に神との繋がりの恵みを語り、神の御心に生きるとは何か、を語るのが律法学者である。イエスに質問した律法学者は「隣人を自分のように愛しなさい」「主なる神を愛しなさい」という律法の本質を教えながら、目の前にいる傷ついた旅人とこの言葉が結びついていないことを私たちは知る。損得勘定で関わる。そのような関わり方は人の目が気になる。良く思われたい。人々に評価されたい。褒められたい。立派な人だと言われたい。本田哲郎神父はかつての自分はそうであった。そのような損得勘定でしか行動できない自分を彼は「よい子症候群」であると言っている。

 ファリサイ派、律法学者たちだけではなく、使徒と言われている彼らもまたそのような者たちであったからこそ、イエスはこの譬えばなしをされたのではないのか。直接教勢に結びつかなくとも、「地域に仕える」これこそが、賀川ミッションを生きることではないのか、自発性、すなわち損得勘定抜きで関わることを神さまは私たちに求めておられる。

 今日私は宣教題を「特別なことではない」とした。なすべきことをしただけだ。わたしたちはこのように言うことが出来ているのだろうか、一人一人が問われている。午後の修養会(全体協議会)ではみんなでこれからの教会について考えることになる。教会移設に伴いどのような教会堂を建てることを神さまは求めておられるのか、みんなで語り合いたい。私たちは特別なことは出来ないし、特別なことをする必要もない。ひたすら神さまに祈りその答えを求めれば、おのずから道は示される。それに応えればよい。そうするならば主がわたしたちを導いて下さる。それは褒美を求める生き方ではなく、福音を生きることに他ならない。