実らせるためには
ルカによる福音書13章6~13節


 礼拝後、臨時教会総会が行われる。これからの教会の在り方をみんなで話し合うことが出来ればと願っている。今、ルカ13章6~13節を読んで戴いた。この箇所は先週の続きで、「悔い改めなければ滅びる」ことがイエスの譬えを通して語られる。一言で言えば、モラトリアムと言うことになる。ここにはぶどう園の持ち主、ぶどう園で働く労働者(園丁)、そしてぶどう園に植えられた実らないいちじくが登場する。ぶどう園の持ち主は神であり、園丁がイエス。そして実らないいちじくはイスラエルの民ということになる。バプテスマのヨハネは最後の預言者として、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は、みな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と裁きの言葉を語った。そしてその言葉を聞いた者たちは、彼からバプテスマを受けた。しかしこの「洗礼」は単に身を清めると言う意味ではなく、「溺死」を意味すると共に、新たに生まれることを意味する。

 ユダヤ人の教師ニコデモに対してイエスは言われた「人は新たに生まれなければ神の国を見ることは出来ない。」「はっきり言っておくが誰でも水と霊によって生まれなければ神の国に入ることは出来ない」そしてそのことは悔い改めと切り離すことは出来ない。この譬えを読みながら、ヨナ書のヨナの物語を思い出した。「ニネベに行き、人々に悔い改めの説教をしなさい。」と命じられる。しかしヨナは神の命令に背き、反対方向のタルシシュ行きの船に乗る。その結果、その船は大嵐に遭い、沈没しそうになる。積み荷を海に投げ込んでも状態はいっこうに変わらない。人々は自分が信じている神に助けを祈る。しかしヨナだけは船底に横になって熟睡していた。起こされたヨナはくじ引きで災いの元とされ、海に投げ込まれる。そして大魚に飲み込まれ、三日三晩大魚の腹の中で過ごし、そこで祈る。その結果、陸に投げ出され、ニネベに行く決心をして、ニネベの人々に悔い改めの説教をする。すると異邦人ニネベの人々は、ヨナの言葉に耳を傾け、神に立ち返る。しかし異邦人が彼の言葉を聞き、悔い改めることがヨナにはおもしろくなかった。そして炎天下が彼を襲う。すると神はとうごまで日差しを遮り、ヨナは快適に過ごす。けれども今度はそのとうごまの木が枯れてしまい、ヨナは再び炎天下に晒される。神はヨナに言われる。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」異邦人は神の恵みの外にいる。救われるはずがない。解放されるはずがない。これがヨナの異邦人に対する価値観であった。

 悔い改めれば、この言葉をわたしたちはしっかりと心に受けとめなければならない。実らないいちじくは、イスラエルを表している。そしてそれは教会の姿をも現しているのではなかろうか。教会はすべての人に門戸を開けているのだろうか。『教会とディアコニア』と言うブックレットを昨日この説教を準備するために読んだ。そこに自らが出かけていくことの大切さが語られている。「話を聞きに来いと言わんばかりの態度になっていないでしょうか。このように自らが出かけていく姿勢は、イエスの宣教命令にも沿うものかと思います。」福祉の専門家である木原活信氏は、コンパッションの大切さを語っている。 教会と福祉の在り方が問われている。公共圏という言葉がある。教会の新しい姿が語られる。教会を「寄り合い所」と言う人がいる。果たして私たちはヨナのように生きていないだろうか。賀川ミッションへの探求が私たちの教会を生かす。