【自分で判断せよ】
ルカによる福音書12章54~56節

 NHK100分名著では、内村鑑三の「代表的日本人」を批評家の若松英輔氏の案内で内村の思想が取り上げられている。今回は「なせばなる、なさねばならぬ、なにごとも」の名言を残した上杉鷹山と二宮尊徳が取り上げられていた。米澤藩の藩主で、藩の困窮、逼迫した財政を貧困に苦しむ農民を思い、彼ら一人一人を大切にしながら、藩の財政を立て直す上杉。少年時代、田畑と財産と家族、すべて「洪水」で失った二宮。二人は逆境の中で、効率、成果主義ではない価値観を見いだしている。この二人の「視点」を内村は高く評価する。

 そして内村は、その人たちの逆境を自分と重ね併せながら、数々の逆境を乗り越え自分の信仰の涵養を醸成させていく。そのことが「キリスト信徒の慰め」で語られている。内村鑑三は無教会を唱え、様々な
教会の制度に対して疑問を抱き、無教会というかたちを作った。多くの知識人が、内村から影響を受けている。あの宮沢賢治の「アメニモマケズ」のモデルであろう斎藤宗次郎もその一人だ。彼は内村の最期を看取っている。

 教会とは何か、と言うことを今日はこの訴える人のたとえを通して考えて見たい。そこにいた群衆に向かって「あなたがたは、何が正しいかを自分で判断しないのか」と語っている。自分で判断すると言うことは、どのようなことを意味するのか、サドカイ派がイエスについて語るなと言うのに対して、ペトロは議会で「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えて下さい。」(使徒言行録4・19)と言い、「神に従う」「キリストに従う」と言うことは「主体的」に生きることを意味する。周りを気にかけることなく、聖書に生きることに他ならない。「分裂を恐れるな、私が来たのは、地上に火を投ずるため、地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。分裂だ。」と言う厳しい言葉がイエスの言葉を聞きに集まっているすべての人に語られている。イエスはここで、不公平な裁判の譬えを通して、裁きについて語っている。ここに出てくる訴える人は、力を持っている。その訴えが取り上げられれば、裁判で有罪が知らぬ間に確定し、収監される。訴えた人が何を訴えたかは書かれてはいない。推察すれば「金銭トラブル」が原因で訴えられた。(59節)「言っておくが、最後のイレプトンを返すまでは牢に閉じ込められる。裁判になる前に、示談せよ。」と言われる。裁判になったら、有無も言わさずに有罪判決が出て収監されるのだから、裁判所に行く前に和解せよ。と言われている。具体的にどのようにしたならば、示談が出来、和解できるのか。それはここには書かれてはいない。

 しかし、前後関係で考えるならば、福音を生きること、すなわちイエスに従い、イエスに倣う生き方をせよと言うことである。神はわたしたちと和解(十字架に掛かられた)して下さった。資格もないのに一方的な恩寵でわたしたちをそのままに受け入れてくださった。賀川豊彦は「実践的贖罪愛」を語り、行動した。わたしたちが和解へと導かれようとするとき、彼の行動はわたしたちに大きな示唆を与える。そして内村は、「傷ついた癒し人」として人々に聖書を語った。自分で判断せよとは、イエスに繋がる(ヨハネ15・2)ことが聖書では前提となっている。そのような判断できる者の群れが教会ではなかろうか。