【今の時を見分けよ】
ルカによる福音書12章54~56節
                           
 年明けから毎日のように不安を駆り立てるnewsが目に飛び込んでくる。これから先、世界はどうなるのか、日本はどこに進むのか、果たしてその先に希望という出口があるのか、わたしたちはどこに立ち、何を土台にして考え、行動するのか。日本の著名な思想家はその打開策を模索し、新たな社会の仕組みを提案している。今、ある人は「前夜」と呼び、ある人は「新たな戦前がはじまった」という。そのような中で、わたしたちはどこを座標軸として生きるのだろうか。答えは明白である。それは聖書に聴き、聖書に生きることである。

 今日の箇所を理解するためには、イエスの「受難の道」すなわち「十字架の道」と切り離すことは出来ない。イエスはエルサレムに向かって旅を続けておられる。9章51節を読むとそのことがわかる。そしてそのエルサレムの旅は19章27節まで描かれている。「イエスの時」、すなわち十字架の時を無視してはこのメッセージをくみ取ることは出来ない。並行記事であるマタイ福音書16章では分岐点であるペトロの信仰告白の直後にそしてその後、イエスはエルサレムに入られる。ここで群衆に向かってイエスは(マタイはファリサイ派、サドカイ派)語りかける。あなたがたは天候を注視しているので、予想するっことができるのに、今の時を見分けることを知らない。今とはチャンス、機会のことである。好機を逃したならばチャンスをわたしたちは得ることは出来ない。そしてそのチャンスは「神の時」でもある。イエスの苦難の意味、十字架の意義を知るならば自ずとそれは行動に表れる。

 昨夜のNHKの特集番組「激動の世界」で、難民を受け入れたドイツの苦難が語られていた。多くの中東(シリア)から「難民」がドイツを目指してやってくる。そしてドイツはその難民を受け入れる。インタビューの中であるドイツ人が、「なぜ、わたしたちの税金を使うのか、が理解出来ない。」と言う声が取り上げられていた。自分のことで精一杯と思っている人たちに「共生」の道を説いても理想として退けられてしまうのが現状である。朝日新聞の2016年【考】で、二回目に奥田知志さんが登場した。彼は置き去りにされる人たちを意識せず、意識したとしても取り残した人たちを無視して、成長に突進することへの危惧を彼の活動を通して語っていた。

 今、教団は伝道する教会を掲げて歩みを進めている。そのことについて異論はない。しかし果たして「小さくされた人たち」の何人の人たちが教会に足を向けているのだろうか。足を向けた人たちに果たして教会はウエルカムと心から歓迎し、受け入れる体制を整えているのだろうか。今日の月報「黎明」に臨時総会について書かせて戴いた。今、わたしたちは祈り求めねばならない。主の御心がどこにあるのか、キリストに従う者として、高価な恵みに生きる者として、主の御心を生きる者として、「分裂」を恐れることなく、福音に生きるものでありたい。

 NHKの100分名著で今、内村鑑三の「代表的日本人」が取り上げられている。そこで、スピーカーの若松英輔氏は、内村にとっての「天の声」とは何か、を言及していた。それは列王記上19章12節で預言者エリアが聞いた声である。わたしたちがこの天の声(存在の根底・全宇宙)に耳を傾けるならば、たとえこれからの道が茨の道であろうとも、主の御心であるならば、道は必ず開ける。一人一人が福音に生きる者として、分裂を恐れず、時の徴を見失わず、主の備えられた道を歩む者として、聖書に生き、祈るものでありたい。