【偽善を見分けよ】

ルカによる福音書12章1~3節

 わたしたちは今の社会を冷静に見分ける目を持たねばならない。今日の箇所は、先々週に引き続きファリサイ派に対する強い非難が語られている。イエスの周りには、数え切れない人たちが集まっていた。「足を踏み合うほどになった。」 安保法制反対のために30日の国会包囲抗議行動には、12万人が集まった。イエスの周りにも多くの数え切れない(ある訳では数万人)「民衆」がいた。これはあの「山上の説教」・「平野の説教」の場面を彷彿させる。イエスはそこで弟子たちに語られた。なぜ、弟子たちだけに語られたのか、推察するしかないが、きっと復活後の「神の国」の宣教を託すために語られたのだと思う。

 イエスは言われる。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」「すなわち偽善に注意せよ」パン種 酵母が醗酵しなくては、パンは膨らまない。酵母を入れないパンを、非常時には食べた。(出エジプト12・34)しかし、酵母が醗酵しないパンはおいしくはない。そのためには、良い酵母が必要不可欠であった。パンを作るために欠かせない酵母こそがパン種である。イエスは「パンの奇跡」を通して、イエスの言葉を聞き、救いを求めてやって来た5千人(マルコ5章30~44節)、4千人(マルコ8章1~10節)(女性・子どもを含めていない)の人たちを養われた。

 マルコ福音書8章14節以下には、ファリサイ派と人々とヘロデのパン種に注意せよと書かれている。ファリサイ派は律法に忠実に生きようとした市民である。

 しかし、その彼らの本質を見ぬいておられたイエスは、彼らは偽善者であると再度言われる。見せかけは立派であるが、その本質は、人の痛みを知らぬ人たちだ。

 「正義の実行と神の愛をおろそかにしている」「痛みによる裁きと神を大切にするということをおろそかにしている。」わたしたちは自分の痛みのように他者の痛みを感じることには鈍感である。満員電車で、隣の人の足を踏んでも気がつかない。その人が痛いと言えば、あるいは気がつくかもしれないが…。これがわたしたちの本質だ。

 イエスは、ファリサイ派の人々を「偽善者」と呼ぶ。偽善者とは、元来は「答える人」である。やがて「俳優」がヒュポリシスと呼ばれ、ヒュポクリテースが悪い意味で「装う人、役割を演じる人、役の身振りをする人」と言う意味となる。すなわち、俳優(役者)がその役によってペルソナ(仮面)を変えるように、見せかけの振る舞いをしている人、宗教の名において、神の戒めを破る人を「偽善者」と呼ぶようになる。

 毒舌で知られている評論家の佐高 信が「慈善者」と「偽善者」についてコメントしている記事がある。そこで「慈善者」は善を施しても見返りを求めない人であり 「偽善者」は見返りを求める人であるという。慈善者ぶる「偽善者」それは、ファリサイ派だけではなく、わたしたちの姿であるかもしれない。

 わたしたちは、イエスの「来臨」を信じ、終末を生きている。(ブルームハルト父子)わたしたちのいのちの終わり、そして世の終わり、いずれもいつ来るかはわからない。しかし、その「中間時」をわたしたちは生きている。だからこそ、見せかけで人の痛みがわかったふりをすることはやめよう。自己中心である自分を率直に認め、少しでもイエスに倣う者として歩みたい。十字架と復活の恵みに生きる者として、日々聖書を読み、聖書に生きる者、祈る者として自分の「霊性」を高め、本質を見ぬき、「偽善」を見分ける眼を持ち続けよう。