【聖霊が教えてくれる】

ルカによる福音書12章8~12節  

 並行箇所はマタイ10・32~33、12、32、10・19~20がある。「人の子」という言葉は、マタイにはない。「人の子」とは、ここではイエスを指している。愛弟子ペトロに象徴されるように、わたしたちは「公」にイエスをわたしの「主」と告白することが出来ないときがある。「恐れるな」と主はいわれる(7節)が、わたしたちもペトロのように信仰告白(9・20節)した後、イエスが逮捕されるときは「知らない」(22・54~62節)と言ってしまう弱さがある。復活の信仰に生きる者、旧約の時とイエスの時(「時の中心」)を経て、教会の時を生きるわたしたちは、どんなときにでも聖霊によって、イエスを「主」と告白することが出来るという。イエスを主と告白する事は、平時には難しいことではない。しかし戦時下にはそれをすることは命がけであった。

 ある講演で、加藤常昭師は「教会の歴史を私どもが振り返るとき、繰り返し批判的に問うべきことは、この日本の歴史の中で何を語ってきたかであります。太平洋戦争中における教会の姿勢もまた問われ続けます。しかし、それは説教レベルにおいても問われるべきです。…敗戦後60年余、何を説教したかもまたきちんと自己吟味すべきだと思っております。そうでないと、説教の姿勢をただすこともおぼつかないことでありましょう。」と語っている。今の時代、何を語るのか、聖書を通してわたしたちは何を聞くのか、が問われている。そしてその問いの中で、10節の難解な箇所を読み解きたい。

 ルカは、旧約(キリスト以前)の時、「時の中心」としてのイエス・キリスト。教会の時としての聖霊。このことを語るために、イエスについてルカ福音書で語り、教会の時を使徒言行録で語っている。しかしその教会の時は、今なお続く。
 わたしたちは、教会の「時」を生きている。すなわち、聖霊=教会として捉えるならば、教会がイエスを「主」と告白する「信仰共同体」として、歩みをなさないと言うことは、聖霊を汚すことであるという。(ベルゼブル論争を踏まえて)困難にあう時、わたしたちは神さまを見失う。何もかにもわからず、自暴自棄に陥るかもわからない。公にイエスを「主」と告白することが問われるときがある。その時、狼狽えてはならない。戸惑う必要はない。イエスを「主」と信じ、告白するならば聖霊がわたしたちを導く。矢内原忠雄も浅野順一もM・ニーメラーも大胆に聖書の預言(預言者エレミヤ)を語り、福音を語った。

 今、わたしたちは預言者に学ばねばならない。預言者は、人に受ける言葉を語らない。権力者にこびを売ることもない。空気を読むこともなかった。ただひたすら神の言葉を語り生きた。歴史社会学者の小熊英二氏が「朝日新聞」(8/27)で言うように、4つのバランス(憲法1条、9条、東京裁判、日米安保)が崩れ、9条は空洞化されてしまった。集団的自衛権が行使されれば、徴兵はなくとも経済的徴兵がアメリカのように行われる。貧しい者はその選択をせまられることになる。「茶色の朝」(著フランク パブロフ)が近づいている。何を語ることが出来るのか、「言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる」と言うみ言葉を心にとめ、聖霊を汚すことのないような行動をとり続け、み言葉に傾注した歩みをしたい。

 わたしたちがイエスを「主」と信じる教会に属する者として歩まないならば、主の弟子ではない。主の言葉に真摯に向き合い、そのみ言葉に生きる者として歩もう。