【はるかに大事なのだ】
 
ルカによる福音書12章4~7節
 ヒットラーがドイツの首相になったとき、多くの教会はヒットラーの恐ろしさを知らなかった。「告白教会」の牧師、神学者は、ヒットラーの危うさ、ひいてはドイツの危うさに気づき、1934(昭和9)年5月に教会会議で「バルメン神学宣言」(第6項)を採択する。そこには、イエスを「主」とする教会の在り方、キリスト者の信仰の在り方が端的に語られている。

 わたしたちは、迫害、弾圧は出来れば避けたい。しかしイエスを「主」と告白するとき、今の空気に流されることなく、主の御心がどこにあるのか、わたしたちは祈らねばならない。遠藤周作は、すぐれたカトリックの作家であった。『沈黙』で踏むがよい。と青銅のイエスが言われる。という表現を通して、たとえ背教しても主はそのわたしたちを受けいれ、ゆるして下さるという。そしてそれはイエスの弟子の姿と重なる。愛弟子ペトロは、9章17節で、あなたは「神の子メシア」と告白するが、その告白を全うすることは適わず、イエスが逮捕されると、イエスを知らないという。

 今日私たちは、恐れなさいという言葉を4回聞いた。「恐れてはならない」「だれを恐れるべきか」「この方を恐れなさい」「「恐れるな」これらの言葉は、弟子たち、イエスを「主」と告白した者に語られた言葉である。イエスは弟子を友と呼ばれ、「体を殺しても、その後、それ以上何も出来ない者どもを恐れてはならない。」と言われる。迫害・弾圧は恐ろしい。

 今、国会でいわゆる「安保法制関連法案」が参議院でも可決されようとしている。連日、老若男女を問わず「反対」を唱えて、国会前で抗議の声を上げている。たとえ法案が与党の力で可決されても、今後も「戦争法案」には徹底的に抵抗しなくてはならないが、それが出来なくなるような「空気」が予想される。その時、果たしてわたしたちは、イエスの「平和を実現する者は神からの力がある」(マタイ福音書5章9節 本田哲郎訳)という言葉を信じて、行動できるのか、といえばその道は険しく、困難であるということを知らねばならない。迫害・弾圧する者がどんなに権力を振りかざそうと、地獄に投げ込む権威はない。だからその方(主・神さま)を恐れなさいといわれる。そのような言葉の後に有名な五羽の雀の話が登場する。

 雀は、重い皮膚病の清めの儀式(レビ記14章4節)の時に、また詩編84編3・4節の鳥は雀であると言われる。 雀は小さく、弱く、なんのとりえさえもないと見なされている。その価値は低い。マタイでは二羽の雀が1アサリオンとあるが、ルカでは5羽の雀が2アサリオンとされている。一日の労働者の賃金の16分の1である。五羽で600円と言うことになる。一番安価な食用の鳥、一番安価な犠牲が雀に他ならない。「言っておくが、だれでも、人々の前で、その人の側に立つことを表明する人は、人の子も、神の使いたちの前で、その人の側に立つことを表明する。」とある。雀のような価値がないに等しいと思われる存在を大切にするならば、わたしたちは主の弟子となる。すなわち、その価値を見いだすことなく、忘れてしまうものは主の弟子にはなり得ない。神は、わたしたちの髪の毛一本すらも残らず数えられている。だから安心しなさいといわれる。

 今日私は、「はるかに大事なのだ」と言う宣教題をつけた。すなわち、主があの五羽1アサリオンの雀に目をとめておられる。ということを知るものであるならば、わたしたちは自ずとその行動へと導かれる。伝道によって1~ 3%にクリスチャン人口が増えても、既存の成長するモデルを乗り越え、イエスを「主」と信じる教会に属する者として歩まないならば、主の弟子ではない。