【どこを照らしているのか】
ルカによる福音書11章33~36節


 月報でも書かせていただいたが、戦後70年、白井 聡の言葉によれば、「日本は、敗戦を『なかったこと』として政治システムをつくってきた。アメリカに従属することを選択したのに対し、アジア諸国と関係のうえで敗戦を否認するというダブルスタンダードの構造をつくってきた。」これを彼は「永続敗戦論」と言っている。戦後レジームからの脱却を掲げる現政権は、まさに対米従属、対米重視を掲げ、アジア諸国に対しては軽視し、そしてアメリカの同盟国として、今、改憲を為さずに解釈で、自衛隊を軍隊として、同盟国の要請があれば派兵する。兵たんに従事する。「戦争のできる国から」「戦争をする国へ」とシフトチェンジする可能性が、「安保法制」の見直しであると言える。私たちは、この現状を深刻に受け止め、「平和を実現する人たちは幸いである」(マタイ5章9節)のイエスの言葉に導かれて今を生きる者として歩みたい。

 今日の箇所は、イエスの譬え話しである。イエスは民衆にわかる言葉、伝わる言葉として譬えを用いられた。並行箇所のマタイ5・15、6・22~23節以外にマルコ4・21~25節にも同じようなイエスの言葉が記されている。またルカによる福音書の8章16節以下の「ともしび」の譬えと今日の箇所は、関連性があるといわれている。「ともしびをともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。」とイエスは言われた。ある訳では、地下室・床下と訳している。光が照り輝かねば、暗くて何も見えない。そしてその光は、燭台の上に置かなければいくら光を放っても意味をなさない。すなわち、私たちは、イエスの光(ヨハネ8・12)に照らされているならば、光として役割を果たすという。そしてあなたの灯火は目である。目に光がある。当時は内部の光を放つ目によって、光が認識され、光の役割を果たすと考えられた。パウロはエフェソ書5章8節で「光の子として歩みなさい」と奨励している。私たちが燭台の上の光となる。これが「世の光」であるイエスに従う道に他ならない。教会の中で、一人一人が光となり、世に仕える時に、私たちはそれぞれが役割を果たすという。

 今日私は、「どこを照らしているのか」という宣教題をつけた。私たちは、どこを照らしているのだろうか。日本キリスト改革派西部中会と教会に関する委員会主催による8・15集会及び2・11集会の講演集第2集が『世の光となる教会を目指して』という書名で出版されている。2009年から2012年の講演会の記録である。プロテスタントの信徒だけではなく、高橋哲哉氏の講演、カトリックの司教である松浦悟郎氏の講演も収められている。私たちが燭台の光となるということはどのようなことなのか、のヒントが書かれている。教会は、社会に向かって神の愛と正義と公平を宣言する「信仰共同体」である。今の時代の中で、その言葉を語る使命がある。

 AERAの最新号は佐藤 優が特別編集長となって、“終わらない戦後”というテーマで編集されている。その中で、安田浩一氏と精神科医の香山リカ女史が、ネット右翼に言及している。今、富裕層がエリウヨ(エリート右翼)として、存在しているという。このことは樋口直人氏の説にも通底している『日本型排外主義 在特会・外国人参政権・東アジア地政学』(名古屋大学出版会) 排外主義が、エリウヨから起こされようとしている。このような中にあって、私たちは何を語るのか、聖書に生きる者としての生き方が問われている。