【すべてが清くなる】
ルカによる福音書11章37~43節


 今回の「安倍首相」の70年談話は、建前では4つのキーワードが盛り込まれていたが、アジア軽視、米追従が本音であることが明らかにされた。と思ったのはわたしだけであろうか。政治家など言葉で語る者は、語る言葉に責任がある。いろいろな視線(雑音)を気にしながら、言葉が紡ぎ出す時、言葉は力を失い、隠れている本音が透けて見えるのではなかろうか。

 イエスの食卓はすべての人たち、特に社会から煙たがられ、忌避、差別されている人たちへの開かれた食卓である。マルコ2・13~17、マタイ9・9~13、ルカ5・27~32でそのことを私たちは知る。食事は交わりである。開かれた食卓こそ、「神の宣教」ビジョンである。

 しかし、このようなラジカルな発言と行動は伝統を重んじ、信仰共同体(教会)のかたちはこうでなければならない。と考える人たちにとっては、到底受け入れられない。実は、そのような文脈を無視すると、このイエスとファリサイ派との会話は理解出来ない。食事をするとき、手を洗う。衛生的な見地に立てば至極当然と言える。しかし、ここで問題にされているのは、弟子達にも共通するが、食事の時に手を洗わないと言うことは、ある抗議が隠されている。それは、「聖と俗」という考え方であり、イエスはそれを克服される。伝統を守れば、神の御心に沿っている。神の御心に生きるためには、それにふさわしい生活があり、交わりがある。

 イエスは、そのような価値観に対して、手を洗わないという行為を通して問いかける。不審に思った家の主(招待してくれた人)に向かって、「実に、ファリサイ派の人々は、杯と皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」さらに「愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお作りになったではないか。ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば清くなる」と言われる。すなわち、私たちが神の恵みに生きると言うことは、宗教的な伝統にとらわれず、縛られず、行動せよと言われているのではないのか。

 教会の使命とは何か、それは「神の国」にすべての人々が招かれていることを宣教、宣言することである。しかし、その業を行うためには、私たちの価値観、ある場合には習慣を見直すことが求められている。

 敗戦日の15日に先駆けて14日に語られた70年談話の新聞記事を読みながら、果たして「戦争責任」が語られたのだろうか?彼にとっての未来志向は「積極的平和主義」である。「戦争のできる国から」「戦争をする国」となるための準備が着々と進められている。

 「公共」の概念に市民がおざなりにされている国に果たして未来はあるのか。川内原発の再稼働が報道された矢先、桜島の大規模噴火の可能性が高まり、気象庁は桜島をレベル3から4へと引き上げ、住民に避難勧告がなされた。安倍首相が山口に帰郷した折、有権者に「この花火のように景気は上がる」と言っていた。なるほどと思った。確かに花火は天に向かって上がるが、その輝きは一瞬である。長くは続かない。トリクルダウンのシャンパンタワーのたとえのように、上にあるシャンパングラスにシャンパンを注げば、下に流れる。しかし、下に行くほどグラスにはシャンパンは入らない。裾野は広い。末端が今か、今かと流れ出るシャンパンを待ちわびても、下にはシャンパンは落ちては来ない。アベノミクスで景気は好転する。わたしが言うのだから戦争法案では決してない。と言っても、その言葉は建前のように感じているのはわたしだけではあるまい。私たちは本音を生きる者として歩みたい。