【神の指】
 ルカによる福音書11章14~23節          

 戦(敗戦)後70年守ってきた「憲法9条」が蔑ろにされようとしている。沖縄の置かれている現状を考えれば、「戦後0年」と言うことも出来る。今年の「慰霊の日」に県立与勝高校3年の知念 捷さんの自作詩が朗読された。沖縄戦で夫を亡くしその遺骨はみつからず、小石を墓に納めざるを得なかった祖父の妹の悲しみに少しでも寄り添えればと願い、認知症で横臥するその人を思い、その詩を詠んだという。

 「みるく世(ゆ)がやゆら」(今は平和でしょうか)と、「安保の犠牲」となり、現在も米軍基地の74%が集中する沖縄で、彼は問う。

 「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。」とヨハネ・パウロ二世は広島で語った。一人一人は善良で、優しさを兼ね備えた人であっても「軍隊」と言う集団はそれをゆるさない。元来聖書がめざすシャローム「平和」に照らし合わせるならば、「積極的平和主義」とは、一人一人のいのちが尊重され、掛け替えのないいのちとして大切にされることである。

 マルコを下敷きにして書かれたとされるマタイではこの箇所は「神の霊」と書かれている。神の指とは、神の力、その働きを指す。逃亡者モーセは、逃亡先で結婚して幸せに暮らしていた。彼は神の山ホレブで神の召命を受ける。燃え尽きることのない柴の間から神の声を聞く。そこで彼は神が民の苦しみを見、追い使うものの叫びの声を聞き、その痛みを知っておられる神が「共にいて下さる」ことを知り、再びエジプトに足を踏み入れる。その目的は同胞の民の解放すなわち、出エジプトに他ならなかった。10の災いを通して、神はファラオに迫り、ファラオはモーセたちの交渉を受け入れ、エジプトから出ることを許可する。後悔したファラオが追うが、紅海の奇跡を通して、民は神の愛を体験する。

 40年の歳月を経て、モーセの後継者ヨシュアが約束の地「乳と蜜との流れる地」に入る。前後するが「ぶよの災い」の時に魔術師が語る言葉が「これは神の指でございます。」である。モーセが神の山ホレブで、神の指で石板に、律法(十戒)と契約の箱の制作仕様が細かく書かれるのを目撃する。詩編8章4節には「あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。」と記されている。悪霊(災い)を追い出すのは、魔術師であると考えられていた当時、悪霊はベルゼブルによって追い出されると信じていた。それゆえにイエスもまた同様に宗教的呪術で追い出すと当時の宗教指導者たちも考えていた。イエスはそのような力ではなく、「神の指」で口のきけなくなった人を癒やされた。とルカは語る。神の指でイエスは悪霊を追い出された。このことを信じる者には神の国は目前まで近づいている。と信じる者と信じられない者たちがいる。ここで信じる(味方する)者たちは集められ、信じない(敵対)者は散らされる。と言われる。

 神の国は目前に近づいている。この宣言を受け入れるとき、私たちに聖霊が与えられる。「天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」と言う言葉を信じる群れが、教会である。その教会は排他的であってはならない。

 ヘイトクライム(差別犯罪)が今、アメリカで大きな社会問題となっている。黒人教会の聖書研究に出席していた白人が、9人を射殺したという痛ましい事件、そして五百以上の黒人教会が焼き討ちにされた。と言うことが「朝日新聞」に出ていたが、そのような優越主義は、イエスの御心に生きているとはいえない。神の言葉に生きる者たちは、神の指の業を信じ、その働きに参与するものであり、「キリストの香り」を放つ者として歩むのである。