【非常識な願い】part1
ルカによる福音書11章5~13節


 ルカは祈りについて語る際に、ここでは一つのイエスが話された「たとえ話」を記している。それが「真夜中に来た友人」の譬えである。このたとえ話を分かち合う前に、箴言のことばを読むので聞いてほしい。箴言3章28節には「出直してくれ、明日あげよう、と友に言うな あなたが持っているから」と言うことばがある。

 パレスチナ地方では、旅人への歓待はあたりまえの風潮である。この譬えは、一日の糧を得てはいるが、余裕がない。貧しい人々の家庭がモデルとなっている。

 あるとき、友人が訪ねてくる。炎天下を避け、旅をした結果、到着は夜中になっていた。箴言のことばでわかるように、真夜中であっても、友人の旅人が空腹であることを知れば、何とかして糧を与えるのは、友人として当然の行為であった。そのため、自分の家には何もない。思案したあげく彼は、彼の友人の家を訪ねる。戸締まりがされ、寝ていることが一目でわかったが、旅人の友人を空腹のままに寝せるわけにはいかない。どうしても友人に糧(パン)を貸してくれ、と頼まねばならない。そのため、しつように願い続ける。最初は夜中なので無理という反応をしていた友人も、その友人のしつような願いに根負けして、一日分のパンを貸す。その執拗さについてルカは 18章の「やもめと裁判官」の譬えでも語っている。やもめの執拗さに根負けして、彼女の願いを受け入れる。 二つの譬えとも弟子たちに対する祈りについての教えとして語られている。祈りとは、願いである。しかし、その願いには一つの道理がある。それが、この箇所では友人のため、歓待をしないわけにはいかない。と言うのがその理由にあたる。

 祈り(願い)が御心であるならば、かならず適えられる。御心であるとはどのようなことを意味するのか、一つは自分のために祈りを献げることである。試練や苦難にあうとき、わたしたちは祈る。しかし、往々にしてすべてを委ねてはいない。苦しいときの神頼みではなく、苦しいときの神離れ、これがわたしたちの現実の姿だ。少なくともそれがわたしの姿である。そのことをご存知の上その人にとって最善の道へと神は導かれる。けれどもそのような状況の時には、その示された道すらわたしたちには見えない。

 遠藤周作に大きな影響を与えたとされている友人の井上洋治神父は「南無アッバ」と祈った。わたしたちは子どもの時には無垢であるので、神さまを信頼することは自然であった。しかし、年を重ねるに従って、神さまへの信頼は薄れ、「苦しいときの神離れ」と言ってしまう。その時、このイエスの教えられた祈りの原点に立ち返りたい。もう一つの御心に適うと言うことの目安はそれが自分のためではない。と言うことである。彼は友のためにこのような突飛な行動に出る。それは、自分の友人に真夜中に訪ね。「パンを三つ貸してくれ」と言う。友のために、このような非常識な行動に出る。

 鷲田清一の「折々のことば」に「わたしの宗教はコンパッションだ」と言うイラン留学生のことばが紹介されていた。10章26節からの「親切なサマリア人」の譬えでも、コンパッションが語られる。わたしたちは、自分のために祈る。困難から目を逸らすことなく、現実を見据えた上で「御心を示して下さい。」と、また家族や教会の仲間のため、そして他者のために祈る。その祈りは己の安心立命にとどまらない。

 隅谷三喜男氏は、「東アジアの苦難、特に朝鮮・韓国の悲劇は、日本の植民地政策からはじまった。」ことを意識して、真摯に現実に向き合ったキリスト者であったと姜尚中氏は尊敬を込めて言う。