【聖霊と悪霊】
ルカによる福音書11章14~23節  

 イエスは口のきけない人に憑いた「悪霊」を追い出される。口がきけないと言うことは、当時、共同体で生きることが難しいことを意味した。レビ記19章13~14節には、ハンディを負う人に対する配慮が語られているのだが…。元来律法は弱者に対する配慮によってなされている。すなわち、そこには弱者に対する共同体のルールがあった。このように記さなければならない背景には、障がい者に対する差別や偏見があるとも言える。

 イエスは、ここで口のきけない人を癒やされる。人々は驚嘆する。しかしそこで論争が起こる。マルコでは「エルサレムからやって来た律法学者」マタイでは「ファリサイ派の人々」と書かれているが、ルカは「そこにいた群衆」がこのような力は、悪魔の仕業である。とイエスを非難する。又ほかの者たちはイエスを試そうとして、天の徴を求める。そのような人たちの心を見ぬいてイエスは「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。」と言われた。

 ベルゼブルは、列王記下1章2、3節にある「バアル・ゼブブ」又ハエの王、糞と関係していると言われる。イエスがこのような奇跡で病を癒やされるのは、悪魔の仕業、悪霊のなせる業、と言うのがイエスを非難している人たちの言い分である。イエスは悪魔と対峙される。10章18節の「サタンが稲妻のように落ちるのを見た」とイエスが言われたこの賜物(タレント)は「弟子たち」にも与えられている。又21、22節の言葉には戸惑うが、言われていることは、K・バルトらに影響を与えたブルームハルトに従えば、「イエスは勝利者」ということになる。悪魔とか悪霊とかが出てくると、現代人はそれを「絵空事」としか考えない。

 昨日、田中 宏先生の「70年前に終わった戦争はいつ始まったのだろう?」と言う講演をきいた。「戦後70年の戦後は1945年から数えれば今年70年を迎えることになるが、日清・日露戦争や宣戦布告をせずに行った事変を入れれば、いつ始まったのか、そして「沖縄」の現実を考えれば、未だにと言うことになる。」と言われた。

 高橋哲哉さんが近著『沖縄の米軍基地』(集英社新書)で指摘するように「米軍基地は私の所には…」という考えの中で、沖縄に基地を置くことに対して、何の痛みも感ぜずに放置しているということは、「沖縄は犠牲になってもしかたがない」というヤマトンチュウ(本土)のウチナンチュウ(沖縄)に対する差別意識が根底にあることを彼は指摘する。「自民党文化芸術懇談会」で首相のお友だちとして知られている、作家の百田尚樹氏が暴言を吐いた。又東京16区の大西秀男・福岡1区の井上貴博・比例区近畿ブロックの長尾 敬議員らが「マスコミを懲らしめるためには、広告収入がなくなるのが一番。日本全体でやらなきゃいけないことだが、広告の提供(スポンサー)にならないことだ。」などなど耳を疑いたくなるようなマスコミに対する不見識極まりない言論弾圧発言を連発した。

 これが今の日本の現実の姿だ。若手の政治家のこの発言は看過できないが、今国会の会期延長で何が何でも「安保法制」を可決して、集団的自衛権を行使し、米軍などの同盟国として後方支援(兵たん)をする体制を整えるとこが神の御心と言えるのであろうか。そのことを考える時、悪霊と言う概念は決して過去のものではなく、今のこの日本を覆い尽くしている様々な問題の中に見いだす。今こそ「神を神とする」「イエスは勝利者」と言うブルームハルト父子の信仰に倣いたい。