【祈りについて】 Part2
ルカによる福音書11章1~4節


 今日の箇所は、先々週と同じルカの「主の祈り」の箇所である。今日は最後の4節のみ言葉にききたい。ここには、「罪」と言う言葉と「負い目」と言う言葉が出てくる。ここで言う罪は、「的を外れる。」と言う意味が原意である。すなわち神との関係性の破れ「疎外」を「罪」とする。そしてその関係の断絶によって、わたしたちは様々な具体的な罪を犯す。

今、水曜日の聖研・祈祷会では列王記上を読んでいる。先週は、ソロモン亡き後南(ユダ王国)北(イスラエル王国)に別れたことについて学び合い、考えた。その中でのキーワードになる言葉が「主の目に悪とされることを行い」である。栄華を極めた賢者ソロモン王が偶像を受け入れたときにもこの言葉が使われている。それ以後、南北の王はソロモン同様の主の前に罪を犯したことが記されている。それは具体的には「偶像崇拝」であるが、それに付随して搾取、暴力、殺戮が肯定され、行われた。このように神との関係の断絶の結果、わたしたちは「罪」を犯すことが記されていく。

 さて、わたしは今日の宣教を準備しながら、あるひとつの「イエスのたとえ話]が思い起こされた。それはマタイによる福音書18章21~35節にある「友をゆるさない家来」のたとえである。ここでペトロが「主よ、兄弟がわたしたちに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と言うペトロの質問に対して、イエスは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までもゆるしなさい」と答えられ、そして莫大な借金(天文学的な数字)を負った家来に対して、王は負債を帳消しにする。そしてその借金を帳消しにされた家来が、自分に100デナリオン(一日の労働賃金の100日分)を返せと迫り、返せないとわかると捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と言い、今は無理だ。待ってくれと懇願しだが、受け入れず牢に閉じ込めてしまう。それを聞いた王は激怒して、彼を牢役人に引き渡した。と言うイエスの譬えである。100日分の借金も決して小さな額ではない。けれども一万タラントと比べるなら、微々たる額である。

 わたしたちは、自分に向けられたこと、自分が傷つけられたことは決して忘れない。よく言われることであるが、踏まれた痛みは忘れないが、踏んでしまったことはわからないので、わかったとしても忘れる。イエスはここである弟子が「祈りを教えて下さい」と言う求めに応じて「主の祈り」を教えられた。その教えは、単純であり、素朴である。飾りけのない言葉が綴られている。崇高な言葉で、整った祈りを献げることよりも、ひたすら幼子が両親(信頼できる人)に願うように、信じて祈る。その中で、最後の4節は「わたしたちの罪を許して下さい。」であり、わたしたちも自分に負い目がある人を皆ゆるしますから…と祈りなさいと言われる。

 祈ることは生きることであり、生きることは祈ることである。主に信頼すること、神さまはわたしたちをいつでも赦し、わたしたちの「罪」を帳消しにして下さる。

 戦後・敗戦70年わたしたちの教会の歩みが問われ続けている。関東教区が「戦争責任告白」から「罪責告白」へというかたちで、わたしたち(教会)の罪を告白している。主は全てをご存じなのでどんな罪をも赦される。どんな過ちも帳消しにされる。しかし、わたしたちはそのことをどこまで真剣に受け止め、自分の歩みをふりかえり、祈りを教えられた者、祈る者として、主の御心を生き、正義と公平を祈り、そしてそれぞれが自分を見つめているだろうか。主の祈りの言葉に生きる時、どんな誘惑、試練に対しても前向きに主の御心を信じて祈ることがわたしたちには出来る。