【問うことから行動へ】
ルカによる福音書10章25~37節


 アメリカ議会両院の合同会議で、日本の総理大臣として初めて安倍首相が演説をした。翌日の朝日新聞の社説では「政治家が未来のビジョンを語ることは大切だ。だがそのとき、植民地支配や侵略戦争の被害にあたり、過激な負担を押しつけられたりしている側の人々に寄り添う姿勢がなければ、説得力は生まれない。」とし、また2日の朝刊で作家の島田雅彦氏が「憲法という経典」という題で、「暴力の連鎖 断つ誓い 戦後 日本の信用の源 改憲すれば全てを失う。」と書いていた。「安保の犠牲」となっている沖縄の呻吟の叫びを無視し、被災地、特にフクシマの声を無視し、米国の両議員から拍手喝采を浴びようとも、私は「集団的自衛権行使容認」も「重要事態」と言う名目で、自衛隊が海外に派兵される事態には断固反対である。

 昔からこの譬えで語られたサマリア人とは、イエスご自身であると考えられてきた。そして傷ついた旅人は私たちのことであると受け止められた。

 社会学者の宮台真司さんと本田哲郎神父の対談『福音宣教』の中で「内発性」と言う言葉をめぐって、「善いサマリア人」に見られるイエスのあの行動のモチベーションは、いつも腸をつき動かされること、すなわち損得勘定である自発性ではなく、損得を超えた利他性、内から湧く力であるとする。損得勘定抜きの行動とは、別の言葉で言えば「自己犠牲」である。強いられたかたちの自己犠牲ではなく、自らが選び取ったかたちの自己犠牲に他ならない。このことを考えながら、わたしは二つの聖書箇所が頭に浮かんだ。

 一つはフィリピ信徒への手紙2章の<キリスト賛歌>である。もう一つは詩編の113編である。クリスマスの物語からイエスは、いちばん小さくされた者として描かれている。しかも出自で差別される。故郷ナザレでの拒否(ルカ4・15~30)そのような中で、イエスは徹底して「神の国」の福音を語り、実践する。そのために12人をはじめとする弟子たちを選ばれる。しかしその結果、イエスは弟子たちに裏切られ、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」(マルコ福音書15・34)と言う最期の言葉を言われ、息を引き取られる。ある人はイエスが上げられたのは「十字架」だけであったという言葉は示唆にとんでいる。

 自分の痛みのように他者の傷みに「共感」(共苦)コンパッションするイエスがおられる。そのイエスの傍らには強盗に襲われ、身ぐるみはがされ、無一文で、傷つけられた「旅人」がいる。どんな理由があろうと、見て見ぬふりを出来ないイエスがおられる。サマリア人は、何をしたのか、私たちはそのことに目をそらすことは出来ない。私たちにはこの様な行動が取れない。その言い分けはいくらでもある。しかし、イエスは「隣人とは誰か」と問うことなく、隣人の傍らにあることを望まれる。

 戦後70年、私たちの国は大きなターニングポイントを迎えている。無関心でいることも出来る。しかし、それで良いのか、が問われている。パウロの言葉にこの様な言葉がある。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」 (ガラテヤ信徒への手紙2・19b~20)

 キリストがわたしたちの内におられる。「敵を愛しなさい」と言われたキリストがわたしたちを導いておられる。そのことを信じ、心にとめ、強いられた自己犠牲(戦前の滅私奉公)ではなく、他者と共に生きるために、損得を超えた利他性、内から湧く力である「内発性」に生きるものでありたい。今から共に「主の食卓」に与ろう。