【祈りについて】part1
 ルカによる福音書11章1~4節


 数年前に召されたドイツの女性神学者ドロテァ・ゼレは「祈りとは、仕事や経済や愛の生活の傍らでときどき思い出されるような営みではあり得ない。それらは起きたり、寝たり、働いたり、遊んだり、ものを生産したり、消費したりする営みという生活全体を包括するものである」と言っている。

 今日私たちが学び、分かち合う箇所は「主の祈り」として知られている。きっと教会に通い始めて最初に覚える祈りが主の祈りであろう。

 マタイとルカにこの祈りが記されているが、読み比べてみるとルカの祈りの方が簡潔である。ちなみにどちらがイエスが祈られたのかということで考えるならば、たぶんルカではなかろうか。と言う学者が多くいる。

 この祈りで私たちがまず心にとめたい言葉は「父」である。イエスの当時ユダヤ人は朝と夕の二回は少なくとも祈った。そして食前にも祈った。生活と祈りは切っても切り離されないものであった。ある意味荘厳な祈りが献げられた。そしてその祈りは「権威化されたもの」となっていった。

 イエスが宣教した人々は、ベッドに眠ることなく、食事のテーブルを夜はベッドに、またそのようなテーブルが無い人たちは、マットか藁のマットを土の床に敷き、毛布を掛けていた。

 今「貧困」が社会問題となっているが、その人たちの中にはネット難民、ハンバーガーショップ難民と呼ばれる人たちがいるが、そのような不安定な生活を余儀なくされていた人々が聖書で言う「民衆」である。

 イエスの弟子たちもそのような層の人たちであったのだろう。そのような弟子の一人がイエスに「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えて下さい。」と言う。それに対してイエスが教えられたのがこの祈りである。

 最初は「父よ」ではじまる。この父は幼児が最初に覚える言葉すなわち、パパ、ママ、お父ちゃん、と言う言葉で言われる「父」である。

 その言葉を「アッバ」という。パウロはローマ信徒への手紙の8章15節で「アッバ、父よ」と言う関係にわたしたちはあると言う。またマルコ14章36節で「アッバ 父よ」とイエスは冤罪で逮捕され、十字架に架かる前にゲッセマネで祈られている。

 幼い子どもが全幅の信頼を父に寄せるようにイエスは父なる神に全幅の信頼を寄せられ、そして祈りの最初の言葉が「父」に他ならない。

 次ぎにある言葉は、御名があがめられますように。御名があがめられるとは、神の御名がすべての人が唱えることである。そしてそれは神の正義と公平がセットになっている。だからこそ次ぎに御国が来ますようにとなる。

 御国とは「神の支配」を意味する。神の正義と公平が行われる時が来ますようにと切実な思いがある。

 更に「わたしたちの必要な糧を毎日与えて下さい。」ある学者(田川健三)は「来る日のパン」を与えて下さい。と言うことだという。

 パンは聖書において大きな意味がある。イエスが荒野で誘惑にあわれたとき悪魔は石をパンに変えよ(3節)と答えている。この言葉を理解するためには、申命記の言葉を知らなければならない。申命記8章3節の言葉に聞かねばならないが、前後の言葉がなければわからない。そしてパンは5,000人の供食とも繋がる。イエスはそこにいた少なくとも男だけで5,000人の人たちにパンを与えられる。またヨハネ福音書の6章35節で「わたしはいのちのパン」であると宣言されている。どんなに苦しい状況の中にあっても、わたしたちがパンを与えて下さい。と祈るならば「いのちのパン」が与えられる。

 最後にわたしの罪を赦して下さい、わたしたちも自分の負い目がある人を赦しますから。と祈る。

 祈りは生きることそのものである。わたしたちは、この祈りを日々唱える。

 明日の希望を信じて、「アッバ、父よ」と信頼を持って祈ることが出来る。