【マリアとマルタ】
ルカによる福音書10章38~42節


 ここに二人の姉妹が登場する。マリアとマルタである。ラザロの姉妹として二人の名前が記されている。(ヨハネ福音書11章1~12章3節)十字架に架かるまえイエスは、兄弟のラザロを失ったマリアとマルタの悲しみを全身で受け止め、奇跡を通して、彼女たちの悲しみを取り去られる。イエスがベタニアに滞在したとき、「マリアは主の足もとに座って」いて、マルタだけがもてなしで大わらわであったと言う。

 使徒言行録22章3節を口語訳では「ひざもと」と訳している。また、申命記33章3節には「足下にひれ伏し」と言う言葉がある。これらは教えを受ける者、すなわち弟子を意味する。 8章1~3節の女性たちがイエスの弟子であるとするとマリアもマルタもイエスの弟子であったと考えることができる。甲斐甲斐しくイエスをもてなすマルタは頭に来てイエスに不平を言う。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いにはなりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」イエスは「マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」イエスの言葉をマルタはどのように受け止めたのか? 「主の足下に座っていた」と言う言葉が弟子を象徴すると、使徒言行録6章には殉教者ステパノをはじめとする7人が登場する。彼らの役割は給仕「奉仕」である。ペトロらはみことばを宣べ伝えることに専念する。やがて前者は司祭・牧師と呼ばれ、後者は執事と呼ばれるようになる。

 イエスはここで彼女らを弟子として見なしている。当時の常識では考えられない。女性はラビ(律法の教師)にはなれなかったからだ。やがて教会は様々な役割分担によって運営されていく。プロテスタントは「万人祭司」であるから、聖職者というヒエラルキーでの司祭は存在しない。牧師はみことばを分かち合う役割が託されているに過ぎない。み言葉を語るということは、重い責務ではあるが、特別ではない。イエスの時代、女性も子どもも男性よりも劣る存在とみなされていた。そのような中にあって、イエスはマリアの全存在を受け止められる。

 最後にフェミニズム神学者の絹川久子氏の言葉を紹介する。「当時の女性にとっても、またわたしたち日本の女性にとっても、屈折した女性のあり方の典型を示すものとしてマルタをとらえることができます。既に長い間固定的に女性の役割として定められていた家事に専心励んでいたマルタにとっての真の解放は何であったのでしょうか。まさに、驚天動地というべき徹底した解放を与えられたのがイエスさまではなかったでしょうか。社会的伝統や風習の中で、自らも驚くほど自然に受け止め夢中になっていた女性を、接待や家事の役割から一挙に解放してしまわれたイエスさまの自由さ、生命の息吹をわたしたちは心一杯に受け止めたいと思うのです。男性中心の社会状況の中で、このような機会を捉えそこなうことなく、女性に対して本当の生命への招待を指し示しながら、女性を因習の縄目から解放する慰めをも同時に与えて下さったことに深く注目したいと思います。」この物語を解放の物語として読むとき、イエスの言葉が解放の言葉としてわたしたちにも響いてくる。