【ここにはおられない】
イースターメッセージ         

 葬られたイエス様のお墓にやって来た女性たちに天使が告げます。「ここにはおられない」(ルカ24・6)この言葉を彼女たちはどのように受け止めたのでしょうか。そして「復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころお話しなさったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活されることになっている、と言われたではないか」と言う天使のこの言葉を彼女たちは弟子たちに告げると、弟子たちは戯言としか思わなかったのです。ペトロだけが立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布がなかったとあります。空の墓を見てペトロはイエス様が言われた言葉を思い出すことは出来たのでしょうか。

 エルサレムから約12キロ離れた場所エマオで、二人の弟子たちが復活されたイエス様と出会います。けれども二人はそこにイエス様がおられるとは思わなかったのです。一人の名はクレオパと言う人です。彼は言いました。「わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。」(24.20)それから三日が過ぎました。そこにいた人がイエス様だとは気づきませんでした。

 イエス様が復活した。墓は空っぽだったと言うことは、科学的に証明するようなことではありません。たとえ復活を科学的に証明しても信じない人には信じられないことだからです。

 復活という言葉は、「起き上がる」という言葉からうまれました。二人はイエス様と食事をするまでわからなかったのです。そして同じように11人の弟子たちもイエス様が復活された事を語り合っていたと記されてはいますが、イエス様の弟子たちも復活されたイエス様を見ても幽霊だとしか思いませんでした。彼らはイエス様のその傷跡を見ても半信半疑でした。イエス様はそこで食事をされます。漸く弟子たちはイエス様が復活された事を信じ、喜んだとルカは語ります。

 「ここにはおられない。」それではイエス様はどこにおられると聖書は語るのでしょうか。『先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』(マルコ16・7)と、ガリラヤには生活苦にあえぎ、苦しみ、嘆く人たち、病人、障がいを負う者、差別されている人たち、寡婦、生活のために買春を強いられている女性たち、皆「律法」という物差しでは神の国のキップを手に入れることが出来ない人たちというレッテルを貼られた人たちがいました。そして「ここにはおられない」と言う声はイエス様の十字架から逃げ去った弟子たちにもかけられたのです。彼らはイエス様を裏切りました。でも、イエス様はその弟子たちを赦されたのです。イエス様は今もわたしたちの傍らに居られます。でもわたしたちも様々な障害であのエマオの二人のように見えないのです。イエス様はわたしたちと共におられます。困った時、悲しみの淵の中にある時、トンネルの中でもがいている時、イエス様は共におられるのです。そのことを信じ、共にイースターをこころから喜び祝い、主の招きの食卓に共に与りましょう。