【彼らだけに言われた】
ルカによる福音書10章21~24節
                                      
 イエスは72人の報告を受けて喜んだに違いない。わたしはこの箇所を読みながら、<マリアの賛歌>(ルカ1章46節~55節)を思い起こした。私たちはこの賛歌をどのように読んでいるのだろうか。

 マリアは、自分には身に覚えがない妊娠をする。そのときの34節の「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と天使ガブリエルの「受胎告知」を受けて反応している。この困惑の反応は当然である。しかし、年老いたエリサベトの妊娠を知るに至り、自らの身に覚えのない妊娠を神の御心として受け入れる。そしてあの賛歌が生まれる。

 信仰を持てばどんな逆境にも耐えることが出来る。と言うことはきれいごとである。わたしはヨブ記を読むとき、つくづくとそのことを思う。しかし、ひとつだけ確信を持って言えることがある。それはどん底のその人に主がおられると言うことである。マリアは、エリサベトの不思議な妊娠を知り、そこに神の導きがあると確信したので、このように言えたのではないか。と考えている。バプテスマの母エリサベト、イエスの母マリア、いずれも聖霊によってその運命を受け止めている。

 イエスはここで72人の福音宣教報告を受けて、聖霊によって喜びにあふれられて主を讃美している。しかも、そのあとにこのような言葉が続く。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」

 ここで言われている「幼子」は純真で無垢であると言うことでも、謙遜でもない。イエスの「神の国」の宣教から想像すれば、弱く、人々から蔑まれ、差別されている人たちが「幼子」である。20節の「あなたの名が天に書き記されている」人たちも又そのような人たちを象徴している。しかも、知恵ある者や賢い者には隠されていると言う。Ⅰコリント信徒への手紙1章26節には、神の選びの法則が描かれている。この法則は旧約聖書から新約聖書へと一貫した流れとなっている。申命記の7章6節以下の「宝の民がそれに当たる」神は一番小さくされた人々、私たちが一番小さくしている人々を通して、「選び」を語られる。その人たちが認められる。その人たちが役割を持つ。すなわち彼らが「天の名簿」に書き加えられるからこそイエスは喜ばれた。この喜びは天に通ずる喜びとすることを22節以下で語られている。そのことをヨハネ福音書17章3節のみ言葉に聴きたい。マタイ福音書でもイエスが父(神)と同質であることを記すが、イエスはここではっきりと明言している。

 カトリックの神父で中世哲学の大家と言われた岩下壮一(1889-1940)は、優れた知性の持ち主である。彼の書いた「信仰の遺産」と言う本は、その集大成であると言われているが、彼はカトリック司祭として、特定の教会に仕えるのではなく、執筆、講演を行い、日本で最初のハンセン病民間療養所「神山復生園」の園長を努めた。いくら知性が豊かであっても、キリスト教の知識が備わっていたとしても、神の選びの真理を知り、受け止めなくては聖書に生きることは出来ない。ここでの「知る」は、アダムがエバを知ったように全身で知ると言うことである。

 今日私は、この宣教題を「彼らだけに言われた」とした。彼らとは、誰を指すのか、文脈(コンテキスト)からすれば、そこは宣教報告をした72人であろう。そしてその72人もまた12弟子同様に「小さくされた人々」であったに違いない。

 神は、そのような人たちと連帯する。その人たちを憐れみの対象とするのではなく、仲間として対等に受け入れるならば、私たちもその恵みに預かれるという。 教会は果たしてその恵みをしっかりと受け止めているのだろうか。喜びの「信仰共同体」「礼拝共同体」として。